第1話:浮気調査、まさかの死体と子供付き
全20話完結済の、火曜日と木曜日の20時更新です。よろしくお願いします。
「ったく、また煙突から煤が降ってきたわ」
近くの工場の煙突から、容赦なく煙が流れてくる。
煤を払うため、頭上を手で振り払う。
「きゃっ」
その拍子に、ゴーグルのついたファシネーターがずり落ちそうになり慌てて抑えた。そして蒸気人力車が近くを通り、塀を揺らしながら喧しい爆速音を轟かせていった。
「ンもう、高い処は嫌いよ! でも、これも隠密行動がデフォな浮気調査の定め…」
逢引き宿の敷地を囲うブロック塀の上を、深紅のバッスルドレスをまとった女が這っている。
口調はやや強気だが、声も身体も微妙に震えていた。
ブーツに飾った真鍮の歯車が、ブロックに当たりカチリと音を立てた。
「ターゲットは、あの部屋ね」
女――俵積田 彬子はグッと気合を入れて、窓の一つに素早く視線を走らせる。
赤い天鵞絨のカーテンは、中央がわずか開いていた。
覗き込んだ瞬間、身体がぐらりと傾き、「あわわっ」と慌ててブロックにしがみつく。
「危ない、危ない…」とは胸中で呟いた。
「怪我なんてしたら、労災扶助が! なんて、小豆畑さんにお小言もらっちゃう……」
「ふぅ――さて、証拠は逃さないわよ。キャメラ子で浮気の瞬間は、ズバッと撮るわ!」
腕にかけていた黒いエナメルのハンドバッグを、窓の中に向け掲げた。
ギギッと小さく歯車の音がする。
サイドに隠れるようについている、丸いレンズがキラリと光った。
「ん、……あら?」
ジッと部屋を見ていた彬子は、ふと違和感に気付く。
大きく目を見開いて、息を呑んだ。
あれだけ高さを怖がっていたのに、慌ててブロック塀を飛び降りた。
大胆にたくし上げた前スカートから、黒いタイツと編み上げブーツに包まれた、しなやかな脚が露わになる。
華麗な動作で着地した。
そして窓に飛びつき勢いよく窓を開けると、室内に飛び込んだ。
6畳間程度の狭い部屋。最近流行り出した、洋風寝台の反対側に回り込む。
彬子は咄嗟に足を止め、頬が強張る。
室内を見ていた時に感じた、違和感の正体。
裸の男女が、並んで床に俯せに倒れていた。
「ヤダ、し…死んでる…の?」
固まっているように動かず、男女の背中には刺し傷など見えない。
状態もまだ新鮮。
それなのに粗末な板張りの床は、真っ赤な血だまりを作っていた。
「うっ…」
眉間を寄せて口元を抑え、一歩後退る。
その拍子によろめき、寝台に手をついた。
顔を上げると目の端に別の人影を捉えて、「ヒッ」と小さく悲鳴が漏れる。
「だ、誰なの?」
ベージュ色のセーラー襟をした、質の良い服を着た少年が、僅か天井に顔を向けて突っ立っている。
薄暗い部屋の中に差し込んだ陽光が、少年の薄く赤茶けた色の髪を照らす。
血色の悪い白い肌が、どこか陶磁器のような印象を与えた。
意識はあるのか、夢うつつなのか。虚ろな表情で微動だにしない。
「なんで、こんなところに、子供が…」
少年の横顔を覗き込んだ瞬間、ノイズまみれの残像のようなものがスッと脳裏を過った。
「なに…」
感情を揺さぶられ、何故か胸の奥がチクッと痛む。
「なんのイメージ」
胸元を押さえ、怪訝そうに眉をひそめたが、振り払うように小さく頭を振った。今考えるのはそれではない。
子供から視線を剥がして、床の男女に視線を戻す。
「依頼主に、なんて説明すればいいのかしら…。あなたの夫が死体になっていましたよ、なんて」
説明している自分を想像し、げっそりと肩を落とす。
「現場を抑えるのが仕事なのよ。死体が浮気しているなんて、サキガケ堂始まって以来じゃなくって!?」
ちょっと憤慨気味に、腰に手を当てた。
ターゲットが場末の逢引き宿で、密会している情報を掴んだ。動かぬ証拠を撮影しようとしたところで、この有様である。
「私は死体現場の調査員じゃない。こんなの、斎部刑事の管轄でしょ…!」
死体は気味が悪いし、異様な状況だ。
「――こんな結末、誰も望んでないでしょうに」
依頼主の顔を思い浮かべ、ガッカリとしたため息が赤い唇から漏れる。
事実を再確認するために、死体へ目を向けた。
「男性の方は、間違いなく依頼主の夫。女性の方は……」
2人を確認し終え、再び少年に視線を向けた。
依頼主夫婦に子供は居ないし、女性も未婚で子供もいないことは判っている。
子供との関係性が見えてこない。
よく見ると少年の繊細で小さな手に、血糊のついた果物ナイフが、しっかりと握られていた。
「あなた、大丈夫?」
恐る恐る声をかけてみるが、少年は反応しない。
まるで人形のような不気味さに、彬子は少し怯む。
(この子が刺したのかしら……)
状況を見れば、そうともとれる。
(でも、こんなに幼い子供が、大人をどう刺すことが出来るというの?)
華奢な身体をした少年が、成人男性を相手に立ち回れるとは思えない。
(大体、逢引き宿に子供がいること自体違和感が酷い。悪趣味の為に攫ってきた子なのかしら)
そういう趣味を持つ変態がいることも、聞いたことはある。
現場は逢引き宿だ。あながちズレた考えではないだろう。
嫌悪感で死体を蹴りそうになった。
(何かの薬を飲まされて、こんな状態になっている可能性もある。薬の効果で凶暴化すれば、子供でも…)
怖い想像をして、彬子は渋面を作った。
(いけないわ彬子、適当な想像をしちゃ!)
腕にかけた黒いエナメルのハンドバッグ――キャメラ子に触れる。
(そうね、この子の正体――キャメラ子に記録してもらうしかないわね)
そう思って腕から外そうとしたとき、部屋の外で話し声がした。それに気づいて「ハッ」となる。
逢引き宿は時間制だ。どのくらいの滞在時間を取ったのかは判らないが、管理者に踏み込まれたら一大事。
「とりあえず、ここを離れなきゃ」
咄嗟に、微動だにしない少年を見た。何故だか心が吸い寄せられてしまう。
ほんの少し躊躇ったが、表情を引き締め顎を引いた。
「子供は放っておけない! 考えてる暇なんてないわ」
素早く少年の傍に回り込む。そして、しっかりと握った果物ナイフを取り上げた。
柄に熱は感じられず、小さな手からあっけなく抜けた。
ナイフをキャメラ子の中に放り込み、少年を急いで抱きすくめる。
手袋越しに伝わる少年の体温を感じたとき、胸をギュッと鷲掴みされるような感覚に包まれた。
鼓動が早まり、全身が何かを訴えるように震える。
柔らかなガーゼの感触、幼けなさに溢れてくるような愛らしさ。
(どこか懐かしい感じ……)
(この子、一体)
チラリと少年を見たが、振り払うように前を向く。今は急ぐ時だ。
もう一度少年をしっかり抱きしめ、深紅のドレスの裾を大きく翻し、窓の外へ軽やかに飛び出した。




