狼青年
ある土曜日、私はアーケード街を田沼と歩いていた。彼は大学の講義でよく見かける人だった。競馬や野球観戦といった趣味が一致すると分かってから、休日に顔を合わせることが増えたのだ。とはいえ、やることといえばカラオケや飲み屋での雑談くらいで、何か生産的なことをしているわけではない。
まあ、こういう繋がりこそ生きていく上で不可欠だろう。誰もわざわざ「生きるには水が要る」なんて言わないのと同じで。
「なあ飯田、今週末の重賞どうする?」
「どうせルメールだろ」
「かぶせてくんのやめろよ」
「外しに行けって言ってるようなもんだ」
取り留めのない会話をしながら、私たちは駅の方へ向かっていた。特に目的なんてない。どこかのカフェに入って、また適当に時間を潰すつもりだった。
そのときだった。
「あのぉ、お兄さん方。サンサンテレビと申します。ちょっとインタビューさせてもらっても?」
声に振り向くと、溌剌としたスーツ姿の女性が立っていた。その背後ではテレビカメラがこちらを捉え、上空にはモフモフのついたマイクが差し出されている。……撮る気満々じゃねえか。
口を開きかけた瞬間、先に声が聞こえた。
「あ、ああ、いいっすよ」
田沼だった。
「ありがとうございます! 私たち今、地元の方に美味しいお店聞いてて。どこかおすすめの場所、ありますかぁ?」
女性は――多分アナウンサーだろうが――ADらしき人からフリップを受け取ると、ペンと共に手渡した。カメラは私たち二人へ向けられているが、彼女の目には田沼しか映っていないようだった。
「お前らミスったな」と思った。田沼は去年からこの街に来た人間で、駅周辺に詳しいわけではない。知っている店といえば、せいぜい夜しかやってない飲み屋か、私と一緒に行ったチェーンの油そば屋くらいだろう。そんなんじゃお蔵入りに決まってる。
「できました!」
予想に反して、田沼は即座にフリップを差し出した。
「どれどれ……『小松原ラーメン』さん、ですか?」
……マジか。
そこは裏路地にある老舗ラーメン屋だった。地元民の私ですら、知ったのは高校時代という、本当にマニアックな店だ。最近はラーメン系の動画でも取り上げられているらしいが、まさか田沼も行ったことがあるなんて。私が知っている彼なんて氷山の一角だったらしい。
「もちもちの麺とキレのある醤油スープがよく絡むんすよ。付け合わせの黒チャーハンも美味いっす。その信号渡って、右入ったとこですね」
「わ~美味しそ~! お兄さんたち、どうもありがとうございますぅ!」
……そうして彼女たちは、嵐のように去っていった。
横を見ると、田沼は大きく息を吐き、肩を落としていた。もし彼がインタビューを引き受けていなければ、あの役目は私に回ってきていたかもしれない。そう思うと、失礼ながらぞっとする。
「ありがとな。……っていうか、お前『小松原ラーメン』行ってたのか? 地元民より詳しいんじゃねえの」
声をかけると、田沼は俯いたまま小さく言った。
「……こういうとこなんだよな」
「は?」
「俺さ、将来、こういうのに首絞められるんだと思う」
意味を問おうとする前に、彼は続けた。
「怖い話だけどさ。小松原ラーメン、行ったことないんだ」
「…………え?」
聞き返した声は、思っていたよりも間抜けだった。
田沼は顔を上げないまま、靴の先でアスファルトの小石を軽く蹴る。
「行ったことない。名前も、さっき思い出しただけだし」
「思い出したって……どこで?」
「さあな。Youtubeかどっかで見たんだと思う。あと、お前が言ってた気もする」
言われて少し考える。そういえば、ある日の授業前に一度だけ話したことがあるかもしれない。部活帰りに寄ったことのある、安くて美味い店だとかなんとか。
……でも。
「黒チャーハンなんてあったっけか」
「知らない」
即答だった。
「でも、なんか『ありそう』じゃん。そういう店なら」
田沼はようやくこちらを見た。笑っているようにも見えたが、上手く表情が定まっていなかった。出来の悪いマネキンのようで、私は少しだけ怖く思ってしまった。
「ああいうの、それっぽいこと言えば通っちゃうんだよ。嘘だと分かっても、勘違いで済ましてくれる。テレビ側もカットするだろ」
嘲るような声色だった。誰に向けているのか分からない調子で、乾いた言葉だけが流れてくる。私は自然と身構えてしまっていた。
「……なんだよ、その顔。冗談だよ」
田沼は私が身構えたのを察したのか、ふいっと視線を外した。
「冗談……って、さっきの食レポも?」
「ああ、Youtubeで見たやつを借りた。アナウンサーの人がさ、期待に満ちた顔でこっち見てただろ? 『地元のおすすめ知りませんか』って。そこで『分かりません』なんて言ったら、空気が死ぬじゃん。それがたまらなく怖いんだ」
彼は早口でまくしたてた。その言葉は、私への弁解というよりは、自分自身を納得させるための儀式のようだった。その「怖い」が何を指しているのか、私は上手く掴めなかった。間が空くことなのか、期待を裏切ることなのか。
「……昔からこうなんだよ」
彼はぽつりと言った。
「小学校で宿題忘れたときも、『プリント配られてません』って言ったし。習い事の月謝なくしたときも、『どうしても欲しい本買った』って言った。なんか止められなくてさ」
苦笑のようなものが浮かぶが、すぐに消え失せる。
「誰かに怒られればよかったのかもな。中途半端に通っちゃったから」
それ以上は続かなかった。ただ、彼の中ではまだ何かが回っているようで、言葉にならないまま沈んでいく感じがあった。再び、彼の顔はうつむいていく。
「飯田さ。俺の『行ったことない』っていう言葉すら、嘘かもしれないって思わないか?」
「……だったらもっと怖えよ」
「……なんてな。もう何が本当で何が嘘か、自分でもよく分からなくなってんだよ」
彼はそれ以上何も言わず、駅の改札へと向かった。カフェで駄弁る気分ではなくなったのだろう。別れ際、彼の背中はやけに曲がって見えた。気のせいかもしれなかったが、私は思わず声をかけていた。
「おい、田沼!」
「……なんだよ」
「今度行こうぜ、小松原ラーメン。嘘じゃなけりゃいいんだろ?」
少しだけ間があって、彼はふっと笑い、手を振った。そのまま改札の向こうへ消えていく。私はもちもちの麺とキレのある醤油スープを想像し、架空の大将に「ちゃんと茹でといてくれよ」と願っていた。




