第7話/99話 「別離 これまでと、これからの」①
〇
アタシはこの町が嫌いだ。
桜山団地は、市の中心にある駅から、北北西の方向へ6kmほどの直線距離にある。
間には小高い丘や森がいくつも遮る地形であるから、鳥でもなければ駅から真っ直ぐ移動することは難しいが。
高度経済成長期、市内の発展に伴って計画されたこの住宅地は、周辺の町と同じく元は山々だった場所を切り開いたものである。
アタシの生まれる10年前、ここには地域の大名の狩場として多少の開けた山と、団地の名前の由来である無数の山桜しかない土地だった。
少し高台にあるこの町は、細い坂や谷がぐるっと周りを取り囲む地形である。
団地を南から北に拡張するにあたって、まず最初に作られたのは1丁目にある県営の複数の集合住宅。
桜山1丁目、2丁目、3丁目と町が発展するにしたがって、半民半官の公団住宅が建ち、ある程度の区画を割った住宅街が整備され、母子家庭を補助する集合住宅としての母子寮が建てられ…。6丁目くらいが整備される頃には、町の真ん中に蕎麦、中華、寿司、洋食、うなぎ…様々な食べ物屋や銀行、床屋、内科に外科、電気屋や雑貨屋、なんでもござれの商店街が成立していた。
アタシの家がある桜山7丁目は、8丁目に当たる保育園、小学校や中学校とほぼ同時期に整備された区画であり、町の北のはずれにある。桜山団地とアタシの通う桜山小学校の学区はほぼ同じであるから、この名前がついた場所からは、やたらと出ないように学校では教えている。
この団地には歴史がない。
地域に老人は住んでいても、それは他から移り住んできた老人であり、古くから住んでいる人はいない。
なんせ団地内には神社がない。
道祖神や地蔵の類すらない。
それは人が通る道すら無かった土地であることを示している。
前の席のスズちゃんは2年生の時に浜の方から転校してきた子だが、夏祭りに誘ったとき、「この町は神社がないけど、お祭りはどこでやるの?」と言っていた。商店街の人たちを中心に、県下の小学校で1番広い校庭で、出店や盆踊りのやぐらを出し、歌ったり楽器を演奏したり、素人漫才をしたりする。それがこの団地の夏祭りだ。
アニメや創作に出てくるような神社の夏祭りや、『〇〇さん』と呼ばれたりする、伝統のある地域の夏祭りをアタシは知らない。
地域の有力者や権力者と呼ばれる人、庶民とはレベルの違う金持ちもいなければ、社会の最底辺の層もほぼいない。
社会全体で言えば、中の下から下の上くらいの人が集まる町。それがこの団地を評してアタシの師匠が後々言った言葉である。
似たような人間が集められた、ただ住むだけの閉塞感の塊のような町。それがアタシの認識である。
アタシはこの町が嫌いだ。
〇
6月5日(土)
半ドン――午前で終わりの学校から帰宅したアタシは、テーブルの上に置かれたおにぎりを食べる。
母が昼ごはんにと、朝から用意してくれていたものだ。祖母は家にいるときも、気まぐれにしか料理はしない。
シュンの姿はない。
部屋にランドセルもなかったから、友達と遊んでから帰宅するのかもしれない。昼飯も食べずに。
〇
「本屋に行ってくる。」
祖母に声をかけ、家を出る。
アタシは必ずどこへ行くか家族に行ってから家を出る。
そうしないと、祖母がアタシを探し回ったりするからだ。
自分は勝手にどこかへ出かけてシュンやアタシを困らせるくせに。
どこへ行くか言わずに家を出て、友達の家で遊んで夕方少し遅くなった時に、祖母が迎えに来たことがあった。
翌日、大勢の友達から「昨日シオリの祖母が家に来た」だの「家に電話がかかってきた」だのとからかわれ、みんなに笑われた。
遥か未来の言葉である個人情報などという観点は、欠片もない時代であるから、クラスメイトの電話番号や住所は連絡網として配布されていた。アタシが家にいないことを心配した祖母はそれを頼りに片っ端から電話をかけ、アタシが家で名前を話したことのある友達の家を回ったのである。
友達の間で、家から離れられていない幼い子供だと思われているようで、軽くトラウマになり、その日、笑われた後の記憶はない。
以来、家では友達の話を極力しないようにしている。
〇
サアサア、と。
歩き出した道には冷たい霧雨が降っている。
梅雨入りしたとの記事が昨日だか一昨日の新聞にあったが、これが続くと考えるだけで憂鬱だ。
雨の中帰宅して家に誰もいないと寒い中震えて待つことになる。
少し前にシュンが、「鍵を持たせてくれ」と怒ったにも関わらず、アタシたち姉弟はまだ家の鍵を持たされていなかった。うんざりするまで毎日親をせっついてやろうか。
傘に降りかかる雨の中、町のはずれ、1丁目にある本屋を目指す。
先日、算数の問題集を1つ終えてしまったので新しいものが欲しかった。
勉強は好きだ。
日頃、いろいろなことに悩まされ、考えることが多すぎるアタシにとって、目の前の問題に集中できる勉強はおそらく向いていた。
日頃のストレスから解放される、脳を休ませる時間に近い。
本屋は商店街のロータリーのところにもあるが、少し小さい。漫画や小説の品ぞろえはそこそこだが、小学生が使うような学習用参考書は数が少なかった。
店主のおじいさんが女子を見る目が怪しいといううわさもある。まあ本当だとしても、どうせ女児が集団でやかましく騒いだりしていたのが重なるとか、迷惑をかけたのが原因ではないかとアタシはにらんでいるが。
とはいえ、そこは小さくて通路が狭いので、雨の日には行きたくなかった。気づかず服が濡れていたりして、積んである本を万が一濡らしてしまっては大変だ。
坂の多い道を、団地の端から端へ歩くとしても、少し大きな本屋に行きたかった。
〇
本屋についたアタシは雑誌のコーナーを軽く眺める。
TVの雑誌、アイドルの雑誌、スポーツの雑誌。時々、委員会で会う上級生が貸してくれる。見るとどれも楽しいけれど、自分で選ぶにはどれを買っていいかわからない。
アニメの雑誌。我が家はTV禁止というほどではないけれど、見ると祖母が癇癪を起こすので、ほとんど見ない。少なくとも祖母の前では。
TVを見ると目が悪くなるから見るな、とも言われている。TVを見なくとも、眼鏡無しで教室の黒板の文字が見えない程度には、アタシの視力は悪いので意味はない。
以前は友達の家でアニメを見たりしていたので、その雑誌にも興味を持てたし、友達と模写をしたりもしたのだが、最近の内容にはおそらくついていけなくなっている。この手の雑誌の中身は放映に合わせてころころ変わる。
漫画雑誌。シュンがたまに親にせがんで買ってもらってくるし、田舎で商店をやっているいとこの家から届いたりもするが、毎号追いかけるには金が要る。日本で一番売れている一番メジャーな週間少年漫画誌だって、2冊も買えば、アタシの月の小遣いはなくなる。
中身はどれも素晴らしいし、興味はあるが、何らかの理由があって買うハードルが高い物の集合体。それがアタシにとっての雑誌コーナーだ。
漫画の単行本のコーナーを眺める。連載中のシリーズもので、いくつかの新刊が出ているのに気づいて、今度シュンから親に買うように頼ませようと思う。両親はシュンに甘いから、家にある続き物は大体買ってもらえる。おかげで我が家の本棚は少年漫画ばかりが増えていく。
漫画の単行本に近くには、ゲームの攻略本のコーナーがある。我が家はゲーム禁止というかそもそもゲーム機がない。
TVと同じく視力が悪くなるから、らしい。繰り返しになるが、アタシの視力は眼鏡無しで生活するのがしんどい程度には悪い。無意味である。
友達の喋る内容がわからず、話についていくために攻略本のみを立ち読みしたこともある。まあ友達と遊ぶ機会が無ければ――今のアタシには――あまり関係がない。
小説を眺める。歴史物は好きだが、ハードカバーは高くて手が出ないので、図書室のものを借りている。購入対象になるのは文庫本。揃えているファンタジーライトノベルの新刊が出ているので、買おうかと考える。しかし、今日持っているのは参考書を買うための、500円の図書券2枚だということに気づきやめる。今度ママと来た時に買ってもらおう。
アタシに漫画を買い与えるのは厳しい割に、活字であれば親は買ってくれるハードルが下がる。アタシは、漫画もライトノベルもそう変わらないと思う。
目的の参考書のコーナー。欲しいのは算数の本だ。
何冊か手に取って眺めてみる。別にどれだって同じだろうと心の奥底で誰かが言っているが、無視する。
できれば問題が多くて、1冊終わらせるのに時間がかかりそうなものが良い。コスパという単語は小学生の頭にはないが、近い概念としてあげるならそれである。
イラストやキャラクターも少ないものが良い。キャラクターが掛け合いをしていたり、読者に向かってしゃべりかけてくる参考書は嫌いだ。文字と数字で埋め尽くされている方が良い。難しいものをやっているという気分に浸れるから。
小説は挿絵が多い方がうれしいし、漫画は絵が綺麗な方が好みだが、参考書は逆なのが不思議だった。勉強と趣味、それぞれの場面でスイッチが切り替わるように、はっきりとしている方が子供にウケるのかもしれない。
もっとも、他の子の好みは知らないけれど。
いくつか見た4年生向けの算数の本は、やったことがあるもの以外、どれも挿絵が多くて好みではなかった。
「あれ、シオリじゃん。」
本を選んでいると、突然声をかけられる。隣の席のイサオがそこにいた。
「……ん。よ、よう。なにしてんの」
町内の本屋であるから、知り合いに会う可能性だってゼロではないのだが、思わぬ場所で声をかけられたアタシは動揺して、思わず上ずった返事をする。
「本さがしに来たんだよ。本屋に用事なんて他にないだろ」
「ふうん。珍しい場所で会うね。マンガのコーナーはあっちだよ」
「ちげえよ、勉強の本見に来たんだよ」
「ますます珍しいじゃん。テストの点が悪くてお母さんに怒られでもしたの」
はっきり言ってしまえば、アタシはイサオのことを、『コミュニケーション能力は優れているが、勉強は出来ないアホ』だと思っている。ちょっとした個人的な問題で、授業中に固まるアタシを何度も助けてくれているが、まともに答えたのを見たことがない。頭は悪くないけど勉強はしないものだと思っていた。
「いや、それがさ……」
なんとなくバツの悪そうな顔で口ごもるイサオ。ハキハキ喋る普段とは少し様子が違う。
「なに。はっきり言えば」
「……中学受験しようと思って」
「へえ。東京とかに行くの?」
市内に受験のある中学はいくつかある。大学や高校までエスカレーター式の私立中学が複数、公立の付属中学が2つ。
1つの女子中を除けば、桜山団地からは遠く、子供の足で通うのは現実的ではない。
いずれも難易度は高くはなく、小学校の勉強ができれば、という程度である。学習の遅れるような厄介な子を弾けるという意味では、生徒の質は良いかもしれないが、それを除いた普通の生徒の学力は、公立中学に毛が生えた程度であることは親から聞いて知っていた。わざわざ通学の手間をかけて行くほどでもない、と。
親が受験という選択肢を、アタシに与えたくないだけかもしれないが。
わざわざ中学受験してまで行きたいところがあるとクラスメイトが言ったとき、市内に男子の憧れになるところがあるとは思えなかった。
「いや、ちがうんだよ。親父たちが、俺が中学に入る頃に市内に引っ越そうかって話をしてるんだ」
ここだって市内なのだが、この場合の『市内』が示すのは、合併を繰り返した結果の、こんな元山奥の団地ではなく、もともとの市の中心部周辺を指す。
「ふうん。だから受験、ねえ」
「行きたくないけど家族が行くなら仕方ないよな」
「引っ越しなんて嫌だ、って言えばいいじゃない」
「そんなの言えるかよ。うち、県営だぞ」
「あー……。そっか、そうだよね」
1丁目にある県営住宅は、複数の集合住宅から成り、小学生の子供がいる世代も多数住んでいる。基本的には所得の低い世帯向けの格安の住居であるから、所得が上がれば出ていく家族も多い。別に追い出されるわけではないらしいが、そういうものなのだ。転校していった友達もこれまで大勢いる。
桜山団地全体として所得の高いものが住む地域ではないから、普段は意識することはないが。
「親父もおふくろもがんばってるのわかるし、引っ越しの話になるとうれしそうだし、オレだけワガママ言えないだろ」
「あー……じゃあ、こう言っとく。おめで……とう?」
「おう、ありがとよ」
「それで、なんで中学受験なの?引っ越し先が市内でも、っつか、どこでも、公立の中学くらいあるでしょ」
「バカ、お前、公立の中学ってことは、同じ小学校から来るやつがいっぱいいるだろ」
「うん」
「もうグループが出来上がってる中に、一人で乗り込んでいくの、怖いだろ。だから、他の奴らも、みんな初めて会う中学に行きたいんだよ」
「あ~……あ~、なるほどね」
普段友達が多くて、明るいばかりのイサオも、アウェー感バリバリの子供たちの中に突っ込むのは怖いらしい。アタシも怖い。
自分と違う生き物だと思っていたやつに、少し親近感がわく。
「でも、イサオなら、別に誰とでも仲良くしてるし、公立でもうまくやれると思うけどな」
「うーん、そうかなあ。……そうかもしれないけど」
「それに、中学上がる時なんでしょ。2年以上も先じゃん」
「オレ、勉強のやり方知らないし、そこからなんだよ。引っ越しの時になって、『やっぱり受験したい』って思うかもしれないし、じゅんびはしておこうかなって」
「……立派だわ。……全然そんな風に見てなかった」
アホだと思っていたが、アタシよりずっと未来を見据えている。
「お前、頭いいじゃん。ちょうどいいから、どの本買えばいいか教えてくれよ」
「……へ? アタシだってわかんないよ」
「でもなんか本選んでたろ。どれがいいとか知ってるだろ」
「うーん、そういわれてもな……知りたいだけなら別に教科書でいいし」
「え、教科書だけだと勉強できるようにならないから、こういう本買うんじゃないのか?」
「普通は教科書読んでるだけでいいの。答えは全部書いてあるじゃない」
「えっ、じゃあ、なんでこういう本買いに来てるんだ?」
「……なんとなく、何かをがんばってるって思いたいから」
やることがないだけなのだ。小学校の勉強なんて、別に勉強しなくてもできると言えばできる。問題集を解いて、正解と間違いのクイズ番組みたいなことがしたいだけ。勉強ならば、やればやった分親は褒めてくれるし、自己肯定感も満たされる。
周りの余計な、世間の煩わしい、他人への評価とも無縁である。正解とそれ以外のシンプルな世界で気持ちよくなっていたいだけ。
ことさら言葉には出さないが、アタシはそう思っている。説明するとなんだか寂しい心持ちになりそうなのでしないけれど。
「そうかあ。……そうなのかあ。じゃあどれがいいとかはシオリじゃわからないかあ」
「アタシには、教科書で勉強がわからないってことがないから、よくわかんないけど。教科書でわからないなら、教科書の中身を説明してくれる本が良いんじゃない? 算数なら、ほら、これとか」
そう言って、カラフルで、イラストや図が多そうな参考書を棚から取ってやる。
アタシは普段選ばないけれど、勉強ができない子にそういう本が喜ばれることは知っていた。
「へえ。じゃあ算数はこれにしてみるわ」
「いや、もっとちゃんと選びなさいよ。1つしかみてないじゃない」
「選んでもわかんねえよ。せっかく頭良いお前が選んでくれたんだからこれにするよ」
「ふうん。まあアタシはいいけど」
「国語も何買えばいいか教えてくれよ」
「一度に買ってもやらないよ。」
経験談から出る言葉である。
複数買うとそれだけで満足してしまう。
積んであるものを見ると、やらなければいけない義務感に襲われてしまい、手を付けたくなくなってしまう。勉強は好きだが、義務感からでは続かない。未読の漫画だって小説だって同じだ。
「そっかあ。じゃあ今日は算数だけにしておこうかなあ」
「そ。算数やってて、他の科目やりたくなったらやればいいの。それと、国語は漢字ドリルやって新聞読んでれば、テストくらい簡単だからね」
「新聞なんか大人が読むモンだろ」
「いや、子供でも読むでしょ。世の中のニュースとかどうやって知るわけ?」
「テレビでいいじゃん? ……あ」
「ん、まあ、そうだよね……」
アタシの家でテレビをほとんど見ないことはイサオも知っている。
「新聞がダメなら小説はどう? オススメの貸してあげるから」
「もっと読まねえからパス。じゃあ、これ、買ってくるわ」
そう言うと、参考書を持ってレジへ向かうイサオ。勢いで選んだものとはいえ、自分の薦めたものをそのまま受け取ってもらうと、信用されている気がして少しうれしくなる。
〇




