第3話/99話 「居場所 日常の」
〇
アタシは朝が嫌いだ。
布団から出なくてはいけないから。
学校へ行かなくてはいけないから。
〇
5月12日(水)
ピピピピピピ
デジタルな文字盤が「07:00」を示すのに合わせてアタシの枕元の目覚まし時計は鳴る。
正直もっと寝ていたい、と思うが、別に寝たところで眠気が取れるわけではない。
ナイトキャップを外して、二段ベッドの上から降り、下の段でまだ寝ているシュンをゆさぶる。
「朝だよ、起きな」
「……ん~……、あと10分」
「起こしたからね、起きられなくて後で文句言うんじゃないよ」
「だいじょぶ、だいじょぶ……」
ぶつぶつ言いながら二度寝に入るシュンを、起きろっ、ともう1回だけ揺らす。
起きない。まあいいや。
眼鏡ケースを取り、いつもの、丈を無理やり詰めたデニムパンツを履き、今日のトレーナーをひっ掴んで洗面台へ。
うがいをし、ばしゃばしゃと顔を洗って、石鹸が残っていないか鏡を見る。
ギョロギョロと大きな垂れ目。同級生の中でも、太い方な眉に、丸っこい顔。
家族だけはかわいいと言ってくれるが、まあかわいくもないし、美人や端正とはとても言い難い仏頂面がそこにある。
アタシは鏡も嫌いだ。
〇
「おはよう」といいながら、台所に入ると、ママの用意したおかずがすでに並んでいて、ママと祖母が朝食を摂っていた。パパと祖父はもう職場へ向かって家を出ている。
「おはよう、ちょっと待ってね。すぐ出すから」
ママは自分の朝食を中断し、アタシにご飯と味噌汁を出してくれる。
納豆とほうれん草、それに焼き鮭。
「納豆要らない」
「食べなさい。大きくなれないよ」
「要らない。におい付いたら嫌」
クラスメイトに臭いと言われるのは当然避けたいし、そもそもにおいの話をされるのも嫌だ。
ただでさえ、かわいい服なんか着ていないアタシである。
においなんかで目立ったら終わりなのだ。
心配事は1つでも減らしたかった。
幸いというかなんというか、我が家の焼き鮭はとても塩辛くて、ほんの少しの欠片で、ご飯茶碗一杯くらいなら食べられてしまう。
納豆はどうしても食べないといけないものではない。
「シオリ、十薬も飲みな」
祖母が湯気の立った、茶色い液体の入ったコップを差し出してくる。
色々な健康食品の通信販売に、祖母はしょっちゅう手を出す。
最近ハマっているのがこれ、別名である十薬とそのままの商品名で呼ぶドクダミのお茶だ。
「要らない。いつも言ってるじゃん。アタシ猫舌だから熱くて飲めない」
「体にいいんだから飲みな」
「要らない!」
少しきつめに、語気を強めて断る。
なんとなく時代の空気で、健康食品や自然派食品のブームっぽいものは感じている。
どの商品も謳い文句だけは立派だけれど。
すぐ不安になったりする、心配症な祖母のような人は恰好のカモだろう。
祖母の買う健康食品は、両親も祖父も口出ししないし、祖母が薦めれば断らない。
だから祖母はますます新しいものを探してのめりこむ。
別に構わないが、家族を巻き込むのはやめてほしい。
〇
朝食を終え歯磨き。髪をヘアゴムで2つに結ぶ。
忘れ物がないか、昨晩用意したランドセルの中を一応確認し、家を出る。
朝の準備が早いのはひそかなアタシの自慢だ。
暖かいと感じた昨日と比べても、今日はまた気温が高い気がする。
このまま夏になるのかもしれない。
シュンはまだ寝ていたので、布団をはぎ取って、もう1回起こしておいた。
今頃朝食だろうか。
通学の途中、アタシに話しかけるやつはいない。
時刻は7時30分を少し回ったくらい。
朝、登校の定刻は8時30分だから、まだ人が少ない。
この時間に登校するのがアタシは好きだった。
早めの時間は知り合いと顔を合わせるのが少ない。
もしクラスメイトと会ったら、こっちから挨拶をしていいかわからないし、無視されても悲しい。
逆の立場でも、相手が気づいているのにこっちだけ気づかない、なんてあったら大変だ。
それをきっかけに苛められるかもしれないし。
アタシは偶然という言葉が嫌いだ。
うまくやれないから。
どうしていいかわからないから。
〇
校門からまっすぐ下駄箱へ。下駄箱からまっすぐ3階へ。階段からまっすぐ、廊下のはじっこの4年3組の教室へ。
教室の扉をあけながら、「おはよ~……」と声を出す。
別に特定の誰かに挨拶しているわけではない。
なんとなく。そういうものだからだ。
教室の中には数人のクラスメイトがいて、「おはよう」と返事をしてくる。
そういうものだからだ。
一番廊下側の前から2番目の席、アタシの席へ。
眼鏡をかけ、身長も低いアタシの席はいつも前の方だ。
クラス替えがあっても、最初の席替えで大体前の方になる。
廊下側の席はお気に入りだ。
体の片側に人がいないのは――片側からでも視線がないのは――、ストレスがない。
やがて、続々とクラスメイトが登校してくる。
35人、いや34人だっけ。今日は誰も休んでいないようだ。
誰も座っていない机もあるが、それは突発的な転校生のためにあけてある場所。
先生が出欠確認をする間、アタシは、今日も頑張って起きて学校に来てよかった、と安堵していた。
アタシは学校が嫌いだ。
でもアタシが休んだ学校はもっと嫌いだ。
休むことで悪目立ちする。
自分がいない空間に知り合いが大勢いると、アタシの悪口を言っているのではないかと不安になる。
〇
給食の時間、アタシたちのクラスでは、班ごとに4人か5人の机をくっつけて向かい合わせになる。
34人学級のこのクラスには、今、机を合わせた塊が8個出来ているはずだ。
アタシの班は4人。
前の席のスズちゃん、その隣のトモクニ、アタシの隣のイサオ。
この学校では、食事の時間に「話題はなんでもいいから」班の中でなるべくコミュニケーションを取るように推奨しているから、クラスが沈黙に包まれる、なんてことはない。
アタシはなぜ先生が会話を勧めるのかわからない。黙って食べても良いのではないか。
わいわい、と。
がやがや、と。
擬音語にすればそうなる、クラスの喧騒の中、アタシは向かい側に座る男の子に感謝の言葉を口にする。
「イサオ、さっきはありがと」
さっきというのは昼食前の4時限目、理科の授業の話だ。
4年生ともなると羞恥心からか、教師が質問しても誰も手を上げない時間というのは存在する。
「誰も手を上げないなら」と、長尾先生からランダムに回答者に選ばれたアタシは、立ったまま、口が動かず答えられないでいた。
教室が微妙な空気になるところ、隣のイサオが手を挙げ、「先生、代わりにオレが答えます!」と堂々と宣言した。
先生に、それなら代わりに答えて、と言われたイサオは、やっぱり堂々と「わかりません!」と答え、教室の空気を沈黙から、爆笑へとかっさらったのである。
「さっき? ああ、答えられなかったときのやつ? ああいえば絶対ウケると思って。利用させてもらったぜ、へへ」
そう言って、イサオはニヤリと笑う。
「だから、別にお礼なんかいいよ。でも次もアレならまたやらせてもらうからな」
「ん。でも、助かったのは事実。お礼に牛乳あげる」
「いらねーよ。お前それ嫌いだからだろ!」
アタシの目論見を軽々見抜くイサオ。
事実である。生臭くて気持ちが悪い。
「でも、次も、代わりに『わかりません』ってやったら、飽きられちゃうんじゃないの?」
スズちゃんが会話に入ってくる。アタシもそう思う。
「同じネタを何回もやるの、お笑いの基本なんだぜ。テンドンっていうんだって」
「あぁ、ドリフだってずっと昔から、『アイーン』と『だっふんだ』ばっかりやってるらしいもんな」
反論するイサオに、トモクニが乗ってくる。
アタシはあまりテレビを見ないからわからないけれど、どうやらそういうものがお約束らしい。
「ていうかさあ」
トモクニは続ける。
「シオリ、わかんないんだったら、さっさと自分で『わかりません』って言えばいいんじゃないの。なんで立ったまま、だまってんの?」
「だって……、だって、わかるし。……答えられなかっただけで」
「ウソつけ。お前が立ったままだまってるの、もう4年生になって、3回目だぞ」
「……」
なんと答えていいかわからない。
アタシの記憶では本当は4回目だが、恥の上塗りになるので黙っておく。
「トモくん、たぶんウソじゃないよ、本当だよ」
「オレも多分マジだと思う」
沈黙するアタシに同情したのか、真面目な顔でスズちゃんとイサオが助け舟を出してくれる。
「は、そんなわけないじゃん。なんか根拠あんの」
「シオリちゃんのテスト、100点しか見たことないもん」
「いや、マジ。これはマジ。こいつ本当にテストは満点。マルばっかり。頭良いんだぜ」
言い過ぎである。
アタシは別にいつも満点を取っているわけではない。
普通にミスするし、答案用紙に×だってある。
でも2人がせっかくそう言ってくれるので、やっぱり沈黙を貫く。
「ええ~~? じゃあなんで、先生に当てられたとき答えないの?」
「……わかんない。とつぜん言われたり、あと、クラスのみんなに見られてるとダメになる。」
半信半疑といった様子のトモクニに、この4人とかなら平気なんだけど、とアタシが続けると、イサオは
「オレ、知ってる。そういうのジイシキカジョーって言うんだぜ。――心配すんなよ。オレがいつでもネタのふみ台にしてやるから」
と、あっけらかんと言い放った。
「なんでトモくん、シオリちゃんが頭良いの知らないの? 保育園からいっしょなんでしょ?」
「昔はアホだけど良いやつって思ってて、そんな頭良いイメージなくて。3年生まで違うクラスだったし……。知らなかった。ウソだって言ってごめん」
すぐ素直に謝るのはトモクニのいいところだ。アタシはそう思う。
「ん、いいよ。アタシは気にしないよ。くーちゃん、……仲直りの印に牛乳あげる」
「そのよび方はやめろって言ってるだろ。牛乳は自分でのめ」
「えー、私もそう呼ぼうかな。かわいくていいじゃん、くーちゃん」
「くーちゃん、俺も呼んでいい?」
「……やめろ!」
2人にいじられるくーちゃんことトモクニを見ながらアタシは考える。
2人はアタシを頭良いと言うけれど、別にそんなことはない。
多少、テストの点が良いだけだ。大体、小学校の勉強なんてできて当然。
上手く答えられないでいるアタシを助けてくれる――本人の自覚があるのかは知らないが――、イサオやスズちゃんの方がずっと頭が良いはずだ。
羨ましい。
2人のような機転は、アタシにはない。
同時に、近くの席にコイツらがいてくれてよかったとも思うし、いなくなったらどうしようと不安にもなる。
いつまでもいてくれるわけはないし、いつ愛想をつかされるかもわからない……。
「あっ、またシオリがむずかしい顔してる。」
アタシの思考をイサオの茶化す言葉が遮る。
「っ、む、むずかしい顔なんかしてない!」
思わずムキになったアタシに、3つの笑顔から放たれた視線が刺さる。
「シオリちゃんはイサオくんとちがって、考えが深いんだから、じゃましちゃダメだよ。時々答えられなくなるのも、きっとそれが関係してるんだよ」
「オレの考えだって、『深い』? みたいなところあるって」
「どうかなあ。イサオはいつも単純だし、人を笑わせることしか考えてないだろ」
「お笑いに、ストイック、って言ってくれ」
「なにそれ?」
ストイックってのはさあ、と説明を始めるイサオ。あんまり勉強はできないけど、意外と色々な知識は持っている。
いつものなんでもない給食の時間はこうして過ぎていった。
学校は好きではない。
知り合いの視線を意識するのは好きではない。
牛乳を飲まなくてはいけない、給食の時間は好きではない
ああ。だけれども。
アタシは多分この3人は好きだ。
3人と話す時間、過ごす時間が好きだ。
漠然と感じる未来への不安。
アタシを含めた4人が、バラバラに別れる将来はいつか必ず来てしまうものなのだけど、なるべく遠い未来であることを望んでいた。
〇
第3話/99話 「居場所 日常の」 終




