第19話/99話 「壊れた体 その疑念」
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9月24日(金)
「それで!? どうして今まで黙っていたの?」
夕飯の後、ママにアタシは叱られている。
夕飯を食べ終わった後、テーブルに座ったままのアタシは、ママと向かい合って座っている。
フルートが下手くそで、アキとの口論を招いたアタシは、ママに、フルートがうまくなりたいと切り出した。
祖父とパパはまだ帰っていない。
シュンは居間でごろごろ、祖母は知らない。
「それでアタシ、ママにフルート習うのもいいんだけど、ちゃんとしたフルートの先生に習ってみたくて」
「そう」
「ピアノも途中でやめちゃったし、あれはお金もったいなかったって思ってるんだけど……。フルートは先生厳しくても、ちゃんとがんばるから。お願い!」
用意した台詞で、用意したポーズ――合掌して頼み込む――で、頭を下げたアタシに、ママは軽い調子で答える。
「まあ、お金の話は今はいいです。習い事だって、何かはさせてあげたかったし、ちょうどよかったわ。あなたをこのまま放っておくのも、教育上良くないかなって思ってたし」
「ほんと? じゃあ、教室探さないと」
自然と頬が緩んだアタシの顔は、ママの次の言葉で、微妙な引きつった笑顔に変わる。
「近くに、確かヤマハかカワイの音楽教室があるから、見学に行ってみましょ。ロータリーのあたりだったはずよ」
「あ~~……、できれば、個人の先生とか……。が、いいんだけど……。ダメかなあ」
「どうして? 音楽はみんなでやるものよ。ピアノは難しいけど……、フルートは大勢でやった方が楽しいわよ。お友達だっているかもしれないし」
みんなで、大勢で、近所で、友達もいるかもしれない、……考えた瞬間、胸がきゅっと締め付けられるのを感じる。
1つ1つの単語を、その言葉の意味するところを、アタシの心は拒否していた。
「……あ~~……。そうかなあ」
出来ることなら避けたい。ただ、なんといえば。
「それに、ピアノやめるとき言ってたじゃない。先生が厳しいから、先生に苛められるから嫌だって。集団レッスンなら、そんな心配ないし、周りに人がいるのは励みになるわよ」
「集団レッスンだって、先生がアタシをイジめるかもしれないじゃん……」
「そうかもしれないけど、その確率はずっと低いわよ。他の人が、言い方は悪いけど監視になるし。先生があなたを苛めてるのを、他の生徒が見たら、その教室に通うのをやめさせようって親も出てくるし。教室の評判のためにもそんなことはすごく少ないわ」
「うん、まあ、そうかもね……」
まずい。このままだと集団レッスンの教室にいくことになる。
とはいえ、大勢の友達の前や、教室だと固まってしまうアタシ自身の今の状態を、家族には説明していないし……。
以前は何ともなかったのだから、そのうち、いつかなんとかなると思っていた。その一時的な異常を家族に説明して、無駄に心配をかけるのが嫌だった。
今更、なんと言って説明したものか。
考えるアタシの目はママから外れて泳ぎ、テーブルにひじをついて組んだ手の平は少し震えている。
もしかするとアタシは、家族に、自分の情けないところを知られるのが怖いのかもしれない。
そんな自省を始めたアタシに、ママは怪訝な声で尋ねる。
「シオリ、あなた、どうしたの……?なにか、隠してることでもあるの……?」
「え、いや、……なにもないよ」
「何もない人はそんな顔しません。言ってごらんなさい」
そんな顔ってどんな顔だ。
心でツッコミをいれつつ、誤魔化す言葉を考える。
「何もないから。何かあったら言うから。心配しないで」
「あなた、まさか……」
ママは深刻そうな声でアタシを問い詰める。マズイ……。
それでも、続くママの言葉にアタシは安堵する。
「学校でいじめられたりしてるんじゃないの? 集団レッスンの教室にいるお友達に嫌な子がいるとか?」
「違うよ。学校でいじめなんか無いし、音楽教室に誰が通ってるか、なんてのも知らない」
内心、ほっと、胸を撫でおろしながら答える。
アタシは普段正直者でありたいと思っているから、嘘をつくのがあまり上手ではないけれど、それでもこの答えは本当だから。
「そう? 最近、学校のこととか友達のこと全然教えてくれなくなったから、心配してたわ。じゃあなんで近くの音楽教室は嫌なの?」
「別にいじめとかはないけど、時々、友達の前で体が動かなくなったりするから」
ママが心配しているのは、もっと深刻ないじめや嫌がらせの話だ。
このくらいのことは話してもいいだろう。
……そう判断したアタシの答えに、思いのほか、ママの表情は崩れる。
「え? 体が動かなくなる?」
「うんまあ、友達が大勢いるところとか、そういうときだけだから問題ないって。だから、集団レッスンの教室だと、うまくやれないかもしれないし、個人レッスンの方が良いな」
「体が動かなくなるのは大問題でしょ! 他にどんな時に動かなくなるの?」
「授業中、先生に答えなさいって言われたときとか」
言ったとたん、ママの目は驚愕に大きく見開かれ、口がぱくぱくと動く。
言うべき言葉を見つけられないかのように。
困った時のアタシを外から見たらこんな感じかもな、そんなことを思う。
大きく息を吸い込んだママは、目を瞑って、ため息と一緒に言葉を吐き出した。
「……いつからなの?」
「3年生の冬くらい?」
ママの様子がどうもおかしい。いじめはないって言ってるのに。
まあ、少しおかしいアタシの体のことを話す気はなかったけど、気が緩んでしまったのだから仕方ない。この際、個人の教室を希望したい理由を正直に話してしまおうか。
「シオリ、あなたね……」
「動かなくなるって言っても、少しの間、ちょっと苦しくなるだけで、別にその後何かあるわけじゃあないし。だから大丈夫だって。それよりさあ……」
「大丈夫じゃありません!」
「へっ!?」
突然、ママが大声でアタシの言葉を遮る。
「おかしいと思ってたのよ。会話しててずれた答えが返ってくる時も多いし、ずっとどこかイライラしてる。考え込む時間も増えたし、何か我慢してるようにも見えたりするわ。友達の話とか全然しないし。何より、全然笑わなくなった。夏休みは少し楽しそうにしてたけど、学校が始まったらまたもとに戻っちゃってるじゃない」
「友達の話をしないのは、アタシの友達に余計な話されたくないからだよ。知ってるでしょ」
主に宗教の勧誘とかだが。
「体が動かなくなるなんて、それこそ大問題よ。自分でおかしいと思わないの!?」
「だから、そんなに深刻な話じゃないんだって」
何度も起こっているとはいえ、一過性の物なのだ。
うまくやれなくて、少し恥ずかしい時もあるが、日常生活に支障があるわけでもない。他人に迷惑をかけているわけでもない。
ママがなぜこんなに大声で必死に話すのか、さっぱりわからない。
アタシはただ困惑していた。
「深刻な話です。いい、シオリ?」
「ん」
ママは少し声のトーンを落とすと、言った。
沈痛な面持ちで。
「あなたが、まず行かなきゃいけないのは、フルート教室じゃなくて、病院です」
「はぁ!? なんで!?」
今度はアタシが大声を出す番だった。
まったく意味が分からない。
なんで病院なんか行かなきゃいけないわけ?
「表情が深刻で、体も動かなくなるなら、もう心の病気か何かでしょ」
「だから、いつもじゃないんだってば」
「じゃあ、いつも、にならないうちに。重くならないうちに行きましょう。精神病かもしれないし、一度、お医者さんに診てもらったほうがいいわ」
「精神病って……そんなの、ありえないでしょ……」
アタシは全くの健康だし、時々体が動かないくらいで大げさすぎる。
なお、補足しておくと、アタシはこの時、精神病と知的障害の区別がついていない。
「何かストレスとかが、かかっていたのかもしれないし、理由はわからないけど、一度行ってみましょ。お薬とかで治るかもしれないし。精神科かしら。小児科から紹介状とかいるのかしら」
「そんな…そんなんじゃない! だいたい、本当に精神病って診断されたらどうするの? ……普通の生活とかできなくなるんでしょ?!」
アタシの心に焦りがわいてくる。
声が大きくなる。
アタシとママの言い合いに、居間のシュンがこちらの様子を伺っている。
もう一度補足しておくと、アタシはこの時、精神病と知的障害の区別がついていない。
知的障害の原因の1つに精神病はあるが、全くの別物。
しかし、アタシを含む大勢の子供の中では、その2つはイコールなのだ。
「……学校だって、精神病院に入院したりとかしていけなくなって、養護学校とかいうところにいかなきゃいけないんでしょ? アタシ、絶対嫌だからね!」
瞬間、アタシの脳裏に蘇るのは、つたない知識ながらも、知りうる限りの知的障碍者の姿。スーパーマーケットで見た、アタシより年上なのにお菓子の棚に夢中な、知性の欠片もないそれ。道徳の時間にビデオで見せられた、頑張っているとかなんとか言われながら、周りに負担をかけて普通のことにも苦労するそれ。大きな公園で遊んでいるときに見た、何かの係の人に付き添われて、他人に迷惑のかかるちょっかいを出す気持ち悪いそれ……。
あれらと一緒の学校に通ったり、同じところで生活したりするなんて、……想像しただけで吐き気がする。
いくら差別や蔑視はやめろと言われても、良くないことだと知っていても、アタシはあいつらと同じところへ行くなど、耐えられそうになかった。
なお、養護学級・特殊学級・特別支援学級をアタシが知るのはずっと後、はるか未来の話である。
「精神病って診断されたからって、すぐにそんなところへ、養護学校へ行けなんて言われませんよ」
「すぐに、ってことは、その後行かされるかもしれないってことじゃん。……養護学校なんて……バカの学校なんて……、アタシ絶対行かないから!」
気づけば、アタシの目からは涙が出ていた。
お前は精神病かもしれない、障碍者だと言われた怒りなのか、それともこれから起こることへの不安なのかはわからなかった。
「シオリ、ちょっと、落ち着いて。お父さんにも相談するから。それから少し考えて……」
「うるさい! 病院なんか、絶対、絶対行かない!」
のども千切れんとばかりに、涙声で全力で叫んだアタシは、テーブルを立つと、2階の子供部屋――という名のただの、申し訳程度にふすまのへりで仕切られた空間――に逃げ込む。
フルートがうまくなりたくて、教室に行きたいと言っただけなのに、なんでこんなことになっているんだろう。
もしかするとアタシの体は……知らないうちに、ママが言うように、すごく悪いことになっているのだろうか。
〇
何も手につかず、着替えもせずにベッドにごろんと横になったアタシのところに、シュンが来る。
「ねえちゃん……」
「ん」
さっきのアタシとママの話を聞いていたはずなので、少し気まずい。
「そこ、ぼくのばしょ」
「ちょっとくらい、いいじゃん」
2段ベッドの1段目はシュンの場所だ。
はしごを登るのがダルかった。
「え~~……どいてよ」
「いつも、アタシの定規とかハサミ、勝手に持っていくでしょ。たまにはゆずりなさい」
「う~~……」
どさっと。ぼむっと。
不満げな声を出したシュンはアタシの横に落下してくる。
「……せまい」
「ぼくのベッドだし」
……。
沈黙。
シュンの息だけが聞こえる。
……なんとも言えない時間が流れる。
なんでアタシが弱ってるときに寄ってくるんだコイツ。
……。
「……ねえ」
「なぁに?」
「シュンはさ、アタシのこと、馬鹿だと思う?」
「え、そんなことないよ」
「そう……」
相変わらず、シュンは何を考えているのかよくわからない。
「……さっきいってた、ようごがっこうって、なに?」
「……普通の学校に行けない子たちがいくところ。目が見えない人……は、盲学校か。歩けないとか、……。……頭が悪いとか。クソバカとか」
「ふぅん。ねえちゃん、そこにいくの?」
「……わかんない。行かなきゃいけないのかも」
「ねえちゃんがバカなら、もっとあたまわるいこ、たくさんいるからだいじょうぶだよ」
「そうかなあ……」
「まず、ぼくでしょ。あとは……うん、いっぱいいるから、みんなでいこうよ。みんなでてんこう」
「みんなで養護学校行ったら、それはただの普通の学校だろ……くくっ」
変な笑いが出てくる。
たまにユーモアの効いたことをいう、シュンの発想はアタシにはない。
「くっくっ、ふふふ……あ~~……、なんか……今日は疲れたからこのまま寝るわ。あんた上で寝なさい」
「え~~……おふろどうするの」
「1日くらい平気でしょ」
「はみがきは?」
「……する」
意識するとなんだか、掃除されていないのが気持ち悪くなる。
それが口だった。
仕方がないのでベッドを出る。
「はみがきするなら、おふろもはいったほうがいいよ。ねえちゃん、くさいし」
「……あんたも同じにおいすんのよ」
同じ家で生活してるんだから。
相変わらず生意気な弟だったが、なぜか少し元気は出た。
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ベッドの中でアタシは考える。
本当になぜこんなことになってしまったんだろう。
昼間は、アキと楽しく何度目かの合奏をして、ただ気持ちよくなっていたはずなのに。
アタシばかり主役の扱いに気づかなければ。
気づいても黙って乗せられておけば。
それでも、アタシの性格として、許せなかったのだから仕方ない。
アキの演奏をただ褒めておいても、それでも良かったのに、余計なことをしてしまう。それがアタシだ。大事な本題に向かわずに、細かいところに引っかかる、アタシの欠点。
アキはアタシよりずっと上手くて、宇宙を見せるくらいうまくて……。
考えを言語化した、思考の中で、突然言葉が出てきたアタシは気づく。
……そうか、アキの演奏で見た物。あれはきっと宇宙だ。
何もない空間。上下左右も広さも重力も温度も視覚も触覚も。ラッパの音を除けば何もない空間。
写真ではなくて、成層圏の彼方に直接行けば、きっと感じる宇宙というのはあれだ。
なぜあの場で伝えなかったのだろう、伝えられなかったのだろう。
言えば、きっとアキは喜んでくれたはずなのに。
ママのいうように、会話でずれた答えが返ってくる、それが邪魔をしたのだろうか。
ただ賞賛すれば良い場面で、憧れた物、自分のなりたい実力を訊いてしまった。それは会話でずれた答えをしてしまうのと、変わらず……。
ママがいうように、アタシの頭がおかしいから、アキとも喧嘩してしまったのだろうか。
「少し体が動かないだけで……精神病院なんて……養護学校なんて……」
あり得ない。ないはずだ。
なお、アタシはこの後しばらくの間、救急車が来て精神病院に連れていかれる夢、窓に鉄格子がハマった精神病院に入院して外に出られない夢、朝に学校へ行ったらアタシの机が無く『お前の学校はここではない』と、みんなに笑われながら背広の大人に連行される夢、それらを見て夜中に何度も飛び起きることになる。
アタシの不安からのつぶやきに答える声は無かった。
〇
第19話/99話 「壊れた体 その疑念」 終




