幕間 狼河原サトミ②
〇
シオリが変わったのは、3年生の二学期だった。
あの日、結果から見れば、私たちは寄ってたかって、彼女をなじってそしって傷つけ、追い詰めた。
とても強いと思っていた彼女の心は、私から見れば、ほんの些細なことで壊れてしまった。
表情の消えたあの日の顔が、私の心から消えない。
その日以降、シオリは少しずつおかしくなった。
とはいえ、少しずつおかしくなっていったのか、すっかり壊れていた違和感に、私がなかなか気づかなかったのかはわからない。
なんせ、2人でいる時は、以前と同じく、頭の回転もよく賢いシオリなのだ。
それでも気づく。
多人数で友達と遊ばなくなった。グループで遊びに行くからと誘っても絶対に来なくなった。
それでも、子供だから、偶然大勢で集まった時も、集まってしまう時もある。
以前ならみんなを引っ張っていくのはシオリだった。壊れてしまったシオリは、集団のはじっこで、私の傍にくっついて、絶対前に出なかった。
友達の前で話を振られても、それが集団の中である限りは、口がパクパクと動くだけで、言葉を発することはなかった。
いつも大勢の友達の中心で輝いていた彼女の笑顔は失われた。
それどころか、話しているとどうも様子がおかしい。
以前の自分をすっかり忘れているように思われた。
シオリはみんなの中心だったはずだが、彼女の認識では『友達の中心にいるのは私やユミ』で、自分は私の隣についていただけだ、というのだ。言ってしまえば、私やユミはシオリの――みんなの王様の――、金魚のフンと言われても仕方ないような存在だったというのに、それでは話が逆だ。
何か謙遜をしているのか、とか、キャラを変えようとしているのか、とかいろいろ問い詰めても、まるで話がかみ合わない。彼女はまるで別の世界から、姿かたちはそっくりな、別な過去を持つ別人を連れてきたように話すのだ。
シオリが私を見る目も変わった。以前の彼女は屈託のない笑顔で、いつも楽しそうに、大きな澄んだ目でまっすぐに私を見てきた。
今も、2人でいる時はそこまで大きく変わらない。表情は少し陰があり、少し伏し目がちになった気がするし、目線が少し合わない時もあるが。……いや、こう言うと2人でいる時も結構違うな。
間違いなく、顕著に違うのは、集団の中で彼女が私を見る目だ。
以前は彼女の視線から、本当に親友というか、信頼というものを感じられた。私はどうしても、運動以外はなんでもできて、周りに人が集まるカリスマすら感じられるシオリに引け目を感じていたけれども、彼女が私に向ける視線は対等のものを見るそれだった。私はそれに誇らしさすら感じていた。
子供たちの集団が、動物の群れだったとするなら、シオリは王で私は妃。幼いころ読んだシートン動物記で言うなら、シオリがロボで私はブランカである。
ユミ? あれは妾か第二夫人。正妻は私である。だった。
おかしくなった後のシオリは違った。集団の中、シオリが私を見る目は、まるで幼い子供が不安げに親を見る目だ。彼女はすぐ顔に出るから、本人がうまく隠せているつもりでも、はたから見れば丸わかりだ。
私がいなければすぐにでも絶望して死んでしまう。そんな顔で、哀れな目をしている。
堂々としているときはあまり意識しなかったが、シオリの背は低いし、体も細い。
こっちにすがりつくような目をしたシオリは、いじらしいという表現がぴったりで、哀れで、かわいらしく、強く強く抱きしめて、その細い身体をそのままバラバラにしてしまいたくなるほどだ。
当然、おかしくなった彼女にきづいたのは私だけではない。
ユミに、あの日のことをみんなで謝って、シオリを元に戻そうよ、と言ったこともある。ユミは首を振って「私はもう何度も謝った。でもシオリはあの日のことを全然覚えていない」と言った。「いくら話してもかみ合わないし、そうじゃない。やり方を考えないと無理」と悲しそうに。
結局、シオリがあの日のことを思い出すまで、元のシオリに戻るまで、みんなで守ってやろう、支えてやろうという結論になった。ユミに「今のシオリは、あんたのことを頼ってるし、唯一の安らぎにしているように見える。しっかり支えてね」というようなことを真剣に言われた。
ユミは頭が良いけど、少し皮肉屋なところもあるから、直後に「いいじゃない。あんたはシオリに頼られてるんだから。どう? みんなのヒーローが自分だけのものになった気分は?」と彼女らしい言葉を付け足すことも忘れなかった。
いくらなんでもそんな言い方は無いんじゃないか、と私は頭にきて言い返してやろうかと思ったが、やめた。ユミの顔はとても悲しそうで、悔しそうで、やるせない怒りに満ちていた。彼女はシオリが大好きなのだ。
ユミの言葉がまるきり的外れというわけでもなかった。
どんどん友達を増やして、前に進んで行くシオリを私は少し寂しく感じていた。仲間が増えるのも良いけれど、もっと私を見て欲しいと。
おかしくなった後のシオリは私にべったりで、他の子とは距離を取り、友達を増やすとか、友達と仲良くなろうともしていなかった。私の名前を呼ぶ頻度も明らかに増えた。
私はそれに少しの優越感と喜びを感じていた。
私は、あるいは私たちは、シオリの強さを信じていたから、いつかは立ち直って元に戻るのだと思っていた。私はその日が早く来て欲しいと、しかし、それと同じくらい、立ち直らずにそばにいて、ずっと私を見て欲しいと思う気持ちもあった。
唐突に私の転校は決まる。
冬休みが終わった三学期のある日、母に「春から新しい学校になるから。転校は大変だけど、頑張ろうね」と言われた。
県営住宅に住む子供はみな自分の家が好きではない。壁は薄いし、ボロくて汚い。他の家に気を使って生活しなければいけないから、あまり騒いだりは出来ない。
子供は多いしみんな一緒で楽しい、と思う反面、ここに住んでいる大人の卑屈さや反骨心がどうしても子供に伝わるからだろうか、いつかはここを出たいし、出るものだと思っている。
私もいつかは両親と、一軒家に住みたいと思っていた。
でもそれが今でなくても。大事な親友を支えたい今でなくとも。
そんな気持ちは押し殺して「うん、わかった。どこへ行くの」とこれからのことだけを両親には訊いた。
すぐにユミには相談した。ユミは、目を見開いて「そんな。……わかってるよね。……今あんたがいなくなったら……」と言って、絶句し、少しの間目をつむった。
大きく息を吸い込んで、大きく吐き、目を開けたユミは、「ごめん、少しまちがえた」と言い、言葉を続けた。「おめでとう。シオリのことは心配だと思うけど、私がちゃんと守るから。心配しないで」と。私と同い年の子供とは思えない大人びた笑顔で。
ユミが、伝えるなら早い方がいい、と言ったのもあり、シオリにもすぐに転校のことを伝えた。
シオリは少し黙ったあと、「おめでとう。さびしくなるね、でもおめでとう」とだけ言った。いかないで、と言われるかもと思った私は少し拍子抜けしたが、思い出した。シオリは泣き言を言わない。
代わりに、シオリの顔は歪んでぐちゃぐちゃだった。祝福の言葉には全くふさわしくない顔。あんな顔で「おめでとう」を言う人を、後にも先にも私は知らない。彼女がどう思っているのかはそれで十分伝わった。本当に、シオリはすぐに顔に出る。
本人が取り繕えているつもりでも、まったく意味を成していなかった。
彼女を抱きしめる。実に小さい。本当に細い。その気があれば折ることすら容易いと思えるほどに。折ってしまって、私の物にしたいと思えるほどに。手折るという表現がぴったりなほどに。腕の中にあるのは手折りたくなる小さな花にも錯覚した。
〇
夏休み。
私の家に来たシオリは、緊張の糸が切れたような、心底安らいだ様子だった。
私がいない間に、よほど気を張っていたのだろうと想像がつく。
彼女は弱音を吐かない、頑張り屋だから。
意地っ張りなところが今の彼女を支えているのかもしれないと想像できた。
ユミとは仲直りできていないらしい。仲直りというのも少し違う気はしたが。
映画に行った。
人込みは別に平気そうだった。大勢の人をかき分け進むシオリを見て、私は不思議だった。視線を集めるのが怖くはないのだろうか。
訊いたところ、彼女は「今しか会わない人たちなんだから、別に気にしなくて良いでしょ。友達とかなら気を使うけどさ」と答えた。
壊れていても、考えが独特なのは彼女らしかった。
桜山の夏祭りに行った。
シオリが誘ってくれたのはうれしかった。
私に、他の子とも会えたらいいね、と言っていたが、それが口先だけで、彼女がそれを望んでいないことは明白だった。おかしくなってしまった後のシオリは、かつて私が彼女に感じていたように、他の子のところへ私が行ってしまうのを嫌がるし、私がそうしてしまうのを常に不安がっていた。口には絶対出さないし、態度にも出さないようにはしていたけれど。
彼女は自分の気持ちを隠すのが下手だった。本当にいじらしいほどに。
シオリが席を外したとき、ユミたちのグループと会った。
シオリの話をしたけれど、案の定、以前よりもおかしい部分は増えている、とユミは言っていた。全く元に戻る様子はない、と。
私たちは再会を懐かしみ――といっても別れたのはわずか半年前のことだが――、楽しんでいたけれど、私は内心、シオリが帰ってきたら少しめんどくさいかもしれない、と考えていた。
戻ってきて私たちを見ているシオリに気づく。ひどい顔をしていた。全身から不安が伝わってくるような雰囲気だった。
私はそれに気づかないふりをして、おーい、と呼んだ。他の子たちも呼びかける。呼ばないのも不自然だった。シオリは頭が良いし、意地っ張りだから、不自然に気を使われることは嫌がる。
私たちの輪に加わったシオリは、明らかにおかしかった。あいさつ程度に少し言葉を交わした後は、血の気の引いた顔に、不器用に貼り付けた笑いで、みんなの話に必死に相槌を打っている。
ひきつった笑顔、要領を得ない言葉、居場所が無いかのように振る舞うよそよそしい雰囲気。これが集団の前に出たときの今のシオリなのだ。
ずっとこう、とユミは言う。頼りになるのはあなただけなのだから、どうか守ってやってほしい。
見かねて、私は言う。「それじゃ、私たち、そろそろ帰るから」と。
シオリはどう見ても、安心してほっとした顔をする。本当に顔に出る子だ。いつも自然に笑顔だった頃ならともかく、今は相当生きづらいに違いない。
帰り道、シオリは何度も「帰って良かったの? みんなと話したかったんじゃないの?」と私に尋ねる。
私は「別に」と何度も答える。友達が何人いてもシオリの方が大事だから。
私はずっと、心から『シオリが一番大事だ』と言っているのだが、彼女は、私が気を遣ってそう言っているのだと思っているらしく、一向に信じてもらえない。そういえば、自分のことはいつも後回しで、友達のことばかりやっている人だった。自分への好意には無関心で、みんなが笑っているのが嬉しそうだった。
今も、自分への好意には無関心、の根っこの部分は同じらしい。少し寂しくも、ほんの少しだけうれしくもなる。
最後に見た、ユミの苦々しさをかみ殺したような、決意がにじむ顔は頼もしさを感じたが、やはり彼女に任せるよりも、私がシオリの近くにいてあげたほうが良かったのではないかと思う。
考えても仕方のないことだけれども。
そうできればよかったのだけれども。
〇
大好きな人がいる。
一緒にいたいと思える人だ。
ずっとそばにいたかった。
ずっと隣にいたかった。
私の傍らから離したくなかった。
初鳥シオリ。
彼女は私の親友だ。
〇
幕間 狼河原サトミ 終




