第2話/99話 「怒り あらわせない」①
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5月11日(火)
5時間目の授業と帰りの会を終えたアタシは、トイレに寄り、下駄箱から真っ直ぐ校門へと向かった。
校門から家までの途中には、撤去された違法駐輪自転車の保管施設があり、その隣にそれよりもう少しだけ敷地の広い公園がある。
子供が寄れる場所といえばその公園くらいであり、そばを通るとサッカーをしている大勢の子供たち――アタシの同級生もいるかもしれない――が見えたけれど、アタシの友達がいるわけもないので、尻目に帰宅の道を行く。
殆ど曇りで肌寒かった連休中とは違い、からっと晴れた空の高い高い太陽は、初夏という名前にふさわしい陽気を振りまいていた。
祖父母と両親、アタシと弟、6人が住むには、プライバシー等を考慮に入れなければ、まあ十分と言える大きさの、古い2階建ての一軒家。
小学校の学区の外周、はずれの方と言ってよい、この住宅街のごく平均的あるいはそれより少し小さい日本家屋。駐車場の入り口を兼ねた門を通ったアタシは、玄関の前に見慣れた後ろ姿を見つけた。
金が無いからと、父が定期的にバリカンで刈り上げる坊主頭。
クラスの女子で2番目か3番目に身長の低いアタシと同じく、同世代の1年生の中でも小さな体。
少し前までアタシが着ていたおさがりのトレーナー、同じくおさがりの灰色のズボン。
アタシの弟であることを全身で表現したような子供、シュンが玄関の前でランドセルを尻の下に敷いて座っていた。
「シュン、何してんの」
びくっと驚いた様子で肩を震わせたシュンは、声でアタシだと気づいたのか、おそらく直前まで途方に暮れていたであろう弱弱しい笑顔で振り返る。
「ねえちゃん、おかえり」
「家に入らないで何してるの」
「はいれないんだ。ばあちゃんいないんだよ」
「で、ずっとここにいたわけ? 遊びにも行かないで」
「うん。どうしようかと思って」
1年生の授業は昼まで。
アタシより1時間は早く帰ったであろうシュンは、ずっと待っていたのだろうか。
「ばあちゃんいないなんてよくあることじゃないの。どうせふじん会の友達のところでしょ。じゃあアタシはその辺てきとうに歩いてくるから」
「えっ、まってよ。ぼくもいくよ」
「ついてくんな。弟と歩いてるところ、だれかに見られたら笑われるだろ」
「だれもわらわないよ、たぶん」
ランドセルを玄関の前に置き、本当に適当に家から出たアタシの後ろからシュンがついてくる。
ついてくるなと言っているのに。
「ねえちゃん、どこいくの」
「あてなんかないよ。スーパーか、だがし屋でも行ってみようか」
「うん。あ、でもまって。おしっこ。がまんしてたの」
「……なんで学校でしてこないの」
「うちですればいいとおもってたんだもん」
「はあ…。その辺でさっさとしちゃいなさい」
おいてかないでね、まっててね、と言いながら空地の草むらに入っていくシュンを横目に、アタシは祖母への怒りに包まれていた。
まあ、いつものことではあるのだけれど。
〇
夫婦がフルタイムで働くのが、割合としてはまだ低いものの、一般的になりつつあった時代。
共働きという言葉とともに鍵っ子という言葉が生まれた。
失くさないように首からネックレスのように鍵をぶら下げるのが流行。
流行と言ってしまっていいのかはわからないが、とにかくそのスタイルの子供がそこら中にいたのは事実である。
我が家も両親と祖父がフルタイムで働いていたのだが、そんなニュースを見て祖母は「うちは私が家にいるから大丈夫ね。しかし、鍵っ子ねえ。家族の愛情が無くてかわいそうね。首から紐なんか下げてたら、転んだ拍子にどこかに引っ掛けちゃうかもしれないし、危ないわ」とそんなことを言った。
それを真に受けた両親はアタシと弟に鍵を持たせていない。
祖母が、自分が言った通りに家にいる人間なら別に良いのだが、実際はよく遊びに行ってしまう。
近所の友達や遠くの親戚、果てはハマっている新興宗教の仲間のところまで。
何度言っても親がアタシに鍵を持たせないし、祖母が家から出かけるのもしょっちゅうなので、アタシは諦めた。
下校の前に念のためトイレに寄るのもそれである。
家の近くには気軽に使えるトイレなどない。
友達の家に遊びに行くにしても、『トイレをよく借りる子』などと思われては、たまったものではない。
3月まで保育園に行っていたシュンには、まだ理解できないかもしれない。
トイレに寄るのを忘れて祖母がいなかった日、大きなコンクリートブロックの蓋を、地面から出っ張った雨水管の点検口から外し、必死に用を済ませた日は本当に惨めな気分だった。
とはいえ、祖母の欠点は同じくらいひどいものがいくつもあるので、その中の1つに過ぎないのだが。
アタシは祖母が嫌いだ。
〇
家を出てあてもなく歩く。
といっても、知らない道は怖いので、知っている人通りのある大きな道を通るしかない。
「ばあちゃん、よくいなくなるの?」
「うん。いなくなるって、いなくなったわけじゃないでしょ。遊びに行っただけ」
「そっかあ。ねえちゃん、よくおこってたの、これかあ」
「アタシはそんなにしょっちゅうは怒ってない」
「そうかなあ。……ばあちゃん、いなくなるならほんとにいなくなっちゃえばいいのに」
「そうね。死ねばいいと思う」
何が、かぎっ子には家族の愛情がない――だ。愛情なんか要らない。鍵をよこせ。
「アハハ! しんだらおそうしきしなきゃね。でもおそうしきするおかね、うちにあるかなあ。ひゃくまんえんとかするんだって」
「知らない」
多分、葬式をしてもアタシは出ない。出たくない。
「ねえちゃん」
「ん」
「て、つなぎたい」
「嫌。なにいってんの、あんたさっきおしっこした後、手洗ってないじゃない」
道中、シュンはずっとにこにこしている。
何が楽しいのかアタシにはわからない。
アタシたちの立場は、家に入れず、行くところもない、かわいそうな子供であるはずだ。
惨めな自分を知り合いに見られたくない、友達に会わないように祈るばかりのアタシ。
アタシと、笑顔のシュンの気持ちは、おそらく全然違うところにあるのだと思う。
〇
15分ほど歩いたところで何度も来たことのある駄菓子屋へたどり着いた。
駄菓子屋の前には数人の女の子がいて、知っている顔もある。同級生だ。
弟と一緒にいるところ、絡まれるのも面倒なので、シュンを促し、さっさと中に入ろうとしたところ、
「あれ、シオリじゃん」
声をかけられた。
同じクラスのユミちゃん。
真っ直ぐの黒い髪の毛をまとめて後ろで1つに結んで、髪留めをつけている。
釣り目が活発そうな、というか実際活発な女の子である。
クラスメイトとして別に仲が悪いわけではない。しかし良いわけでもない。
以前はよく一緒に遊んだし、家にも行ったが、今年になってからは話した記憶がない。
中の下から下の上くらいの家庭の子たちが集められた、公立小学校。
その中でも階層、ヒエラルキーは厳然と存在しており、ユミちゃんはなんというかカースト最上位。
アタシは下の方。
いつも数人の友達と騒がしくしていて、先生や男の子とも雑談に興じるのがユミちゃん。
クラスのすみっこに一人で座っているのがアタシ。
体育や球技も楽しそうにやり、疲れたら上手にサボるのがユミちゃん。
いつもどんくさく、チーム競技なら、真面目にやれとチームメイトに怒られることもあるのがアタシ。真面目にやってはいるのだが。
服もきれいなブラウスやセーター、よくわからない袖や襟にひらひらのついたおしゃれな服を着て、スカートも履くのがユミちゃん。
弟にいずれはお下がりされるであろう、装飾という言葉をどこかに置き忘れてきた使い古しの子供服を着ているのがアタシ。
ユニセックス? そんな都合の良い言葉は我々の現実に存在しない。
あるのは『かわいい』『かわいくない』である。
同じ空間にいることは多くても、何もかもが違う相手が呼びかけ、近づいてくるのにどう反応するのが正解かはわからない。
が、日ごろ社交辞令を何度もシミュレートした口は勝手に動く。
「ユミちゃん、コンニチハ」
「学校の外で会うのひさしぶりだね。どしたの? 待ち合わせ? 買い物?」
「いや、別に、なんとなく」
ユミちゃんの身長はアタシより高く、アタシの目線はユミちゃんの喉くらいである。
正面に立たれると自然見上げる形になるし、質問にもどこか圧迫感がある。
……なんとなくだが、嫌われている感じがする。少なくとも、好かれてはいない。
近くに来られると、アタシは、正直、少し動悸がする。
ユミちゃん本人の圧だろうか。
と、そんなユミちゃんはアタシの隣に立つシュンに目をやると、ひざを折って屈み、シュンに目線を合わせ
「弟?」
とアタシに尋ねた。
「まあ、うん」
煮え切らない返事をするアタシをよそに、シュンは
「はじめまして。はつとりシュンです」
と、ユミちゃんの顔をしっかり見ながら答える。
家の中ではすぐに泣いたり怒ったりするくせに、こいつは子供同士のソトヅラだけは良いし、挨拶もしっかりこなす。
まあ、大人は苦手みたいだけど。
「へえー、かわいい。初めまして。狐塚ユミです」
愛想の良い子だねえ、とアタシを見て続けるユミちゃんからは、言外に「あんたとは違って」というような意図を感じる。
「今日はお姉ちゃんとお買い物?」
「うん、そうだよ。ユミちゃんは?」
お買い物って。
適当に歩いてきただけのアタシは金なんか持ってないけどな。
どうするつもりなんだコイツ。
「アタシはお友達と遊びにいくの。そうだ、アタシが何かおごってあげようか。シオリちゃんはケチだから、あんまりお金持ってないでしょ。」
「ううん、しらないひとから、なにかもらっちゃだめって、いわれてるから、いい」
「知らない人って。アタシはお姉ちゃんの友達なんだし遠りょすることないのに」
「ありがと。でもだいじょうぶ」
ずいぶんと失礼なことを言われた気がするが、まあ事実ではある。
シュン、よく断った。
正直、アタシはユミちゃんとの会話はさっさと切り上げたい。
「それにしても」
ふふっ、とユミちゃんは笑い、目の前のシュンの顔と上にあるアタシの顔を見比べる。
「そっくり」
くっくっと喉を鳴らすユミちゃん。
なんだか馬鹿にされたような気がして、アタシは思わず
「姉弟なんだから当たり前じゃん。シュン、行くよ」
と声をかけ、店に入ろうとした。
「あっ、まってよねえちゃん。ユミちゃん、じゃあね」
「うん、またね」
アタシの背後で、今度一緒に遊ぼうね、とユミちゃんに言われたシュンは、はーい、と元気よく返事をしている。
会ったばかりの女子にデレデレするなよ。
まあユミちゃんかわいいから仕方ないけど。
同じクラスにシュンがいたら、多分アタシは友達になれないタイプだと思う。
〇
鼻にこびりつくようなソースのにおい――おそらくはゴミ箱からの――を感じながら、店内を眺める。
この店を駄菓子屋とみんな呼ぶが、実際のところこの店はクリーニングの受付が本業である。
かつて八百屋として使っていた、持て余した広いスペースで駄菓子を売ったり、ビデオゲームのスペースにしたりしているだけの店である。
広いカウンターの奥には、受け付けられた洗濯物や、クリーニングの工場から返送された洋服や布団があるのを、アタシは知っている。
子供が好きなスナックやソース菓子のにおいは結構強烈だし、洗濯物に付きはしないのかと心配になる。
ママがクリーニングを頼むのはこの店ではないし、アタシはクリーニングに出すような服を持っていないから関係ないけれど。
色とりどりの飴や餅菓子、あるいは小さいながらも目を引く派手な包装のソース菓子。
陳列と呼んでいいのかわからないほど所狭しと並べられたそれらを眺めていると、シュンがアタシの服を引っ張る。
「ねえちゃん、ねえちゃん」
他に客はいないのに、カウンターに座るおばちゃんに気を使ってか、声は小さい。自然とアタシの返事も小さくなる。
「なに」
「なにかうの」
「買わないよ。アタシお金ないもん」
「ええー……」
「ういんどーしょっぴんぐって言うのよ。あんたも楽しみなさい」
聞きかじりの言葉でシュンを黙らせ、買えもしない見物に戻る。
「ねえちゃん、ねえちゃん」
「なに。うるさいな」
「ぼく、おかねある。なふだのうらに。100えん」
「本当? なんでそんなところに入れてるの」
「ほんとうは、くつのうらとかに、かくしておくんだけど。くさそうだからなふだにした」
かっこいいでしょ、と笑うシュン。どこでそんな知識を覚えてくるんだか。
「ふーん。じゃああんたはそれで何か買いなさいよ。アタシはいいわ」
「ていあんがあるんだけど、なにかかって、ふたりでたべよう。それで、ママとかばあちゃんには、ねえちゃんがかったことにしてよ」
「は、何いってんの?」
「いいから。ぼくにまかせて、はなしをあわせて」
なんだか話が呑み込めないアタシに構わずシュンは、なににしようかな、とか言い出す。
「小さいラムネとかでいいんじゃないの。いっぱい入ってるし」
「うーん、マーブルチョコとかたべたい」
「あれは夏に溶けちゃうから、こういう店にはあんまり置いてないわよ。スーパーとか行かなきゃ」
「んー、じゃあラムネでいいや」
結局、小さなタブレットのラムネを、コーラ味とソーダ味、それぞれ1つずつ買い、小さな公園のブランコに座って2人で分け合って食べた。
喉が渇けば、公園の水飲み場で水を飲んだ。
自販機のジュースを買う金など当然ない。
アタシ一人であれば自販機の下をのぞき込んで運の悪い人に落とされた小銭を棒で取るくらいはしてもいいが、弟にそんな姿は見せたくない。
「ねえちゃん、さっきのひとのこと、きらいなの?」
「さっきの人?」
「えっと……、ユミちゃん?」
「別に嫌いじゃない。好きでもないけど」
「きらいみたいにみえた」
「あんた、それ他で言うんじゃないよ」
人気者のユミちゃんに睨まれでもしたら大変だ。
「いわないよ。でも、ユミちゃんはねえちゃんのこと、すきみたいにみえたよ」
「そんなわけないじゃん」
「ぼくのこと、かわいいっていってたし、ねえちゃんと、そっくりって。ねえちゃんのこと、かわいいってことでしょ」
「馬鹿にしてんのよ。絶対、他で言っちゃダメだからね」
「いわないよ。あ、ソーダあじ、もうすこしちょうだい」
「どうだか。まあ好きに食べれば」
シュンはアタシに気を使ってか「こういうのも楽しいね」などとずっとニコニコしていた。
が、アタシは「クソババア、早く死なねえかな」と祖母に殺意を募らせていた。
きっとユミちゃんみたいな恵まれた、世界に普通に愛された子は、こんな、祖母のせいで家に入れないなんてこともないだろう。
女子にあるまじき外でトイレをした経験も。
頭が痛くて熱があるから早く家に入りたいのに、地面に落ちる雨粒を見ながら玄関先でガタガタ震えた経験もないだろう。
友達と談笑するクラスメイトの顔を思い浮かべながら、アタシは勝手に自分とそれを比較し、モヤモヤした感情を鬱積させていく。
別に、紛争地域の死が日常である子や、貧しい第三世界の子、育児放棄、そんな大げさな話でなくたって、こんなありふれた日本の住宅街の日常でも、他者と自分を比較して最低な気分にさせる地獄はある。
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