第14話/99話 「空 高く遠く」
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高い高い空だった。
透きとおった青だった。
見上げれば透明な青しかない半円の空間にアタシはいた。
時雨と例えるに相応しいセミの声はとてもうるさく、遥か彼方に太陽が見えるので、かろうじてそれが空だとわかるが、それらが無ければ空とは認識できないかも知れない。
成層圏の向こうに宇宙があるという聞きかじった事実は信じられず、この空はどこまでも無限に続いているような。
もしアタシの体に大きな風船をつければ、浮き上がって、そのまま青の中に溶けていってしまいそうな。
抜けるような空という言葉をアタシは初めて実感した。
そんな夏らしい夏の日だった。
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8月1日(日)
「午後は魚取りにいこう。お父さんが一緒についてくれるって」
「魚取り?釣りじゃなくて?」
目白商店の外で、並んで売り物の棒アイスを食べながら、モユが言う。
モユとアヤホと、アタシとシュン。
モユの母ミツコは、アタシのママの妹であり、嫁いできたのがド田舎にある目白家。
倉貴という地域だが、まあ覚える必要はない。
アタシは『ド田舎』としか覚えない。
アタシと同い歳のモユ、1つ下のアヤホ、年の離れたミサカ――従姉妹の三姉妹がいる目白家は、細い道を入ったところで、部落で唯一の商店をやっていた。
目白商店は、日用品、野菜、保存のきくジュースや加工品、子供のお菓子まで。注文を受ければ、問屋から普段扱わないものも取り寄せる。
古くからある部落だから足の不自由なお年寄りも多く、配達業もやっていた。
田舎によくある商店――何でも屋である。
目白家の敷地入り口は少し狭いが、庭は広く、配達の軽トラや目白家祖父が乗るオート三輪をとめてもまだまだ余裕がある。
敷地にはとても広く、柱もぶっとい母屋――部屋の1つ1つもまるで寺のように広い――と離れがあり、子供部屋は離れの方だった。
朝から目白家を訪れたアタシたちは、午前は離れで、普段は見ないクネクネした変な動きをする米国製のアニメを見て過ごし、昼を食べたところだった。
「そ。去年はセミ取りしたでしょ」
「おしっこばっか飛ばされて、全然とれないやつね……」
物理的にも心情的にも苦い思い出である。
「今年は魚取り」
「釣りじゃなくて?」
再び同じ言葉で訊いてしまう。
「釣りじゃないよ。川にいくから。釣り竿じゃなくて網で」
「見たことある。網目が大きいやつね」
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「はい、これ」
玄関に置いてあった、長い棒の先に細かい網のついた、いわゆる虫取り網のような物を手渡される。
「網目がもっと大きいやつかと思った」
「大きいやつは、タモって言って、釣った大きな魚を取る時に使うんだよ。川の魚は小さいからそれでいいの」
「ふうん」
説明を受け、なんとなくわかった気になる。
「ぼくも、ぼくも」
「シュンくんも、はい」
「ありがと」
「準備できたらいくぞー」
表の道の方から、大きな声で呼ばれる。
川まで、モユの父のマサアキさんが、歩いて連れて行ってくれるそうだ。
水に入るらしい。履いているのが短パンで良かった。
目白家には毎年来ているけれど、来る途中、車から見える川は、団地のドブ川とは違いとてもきれいだったので、遊ぶのは少しワクワクした。
〇
「そっち、そっち」
「何してんの、ちゃんと網回して!」
「いくぞー」
幅が3メートルほどの澄んだ小川。
護岸工事されておらず、土と緑で出来た堤の上には、桜並木の並ぶ浅い川。
高い空の下に、大勢の子供たちの声が響く。
マサアキ叔父さんは部落の人気者だった。
バケツを持ったマサアキさんに連れられて川まで歩いていると、部落の子供たちの集団に出くわした。私より大きい子も小さい子も。10人以上いる。
彼ら彼女らにとってモユは友達で、マサアキさんは『配達で来る近所の店の若旦那』である。
なにしてんの、どこいくの、とあっという間にアタシたちは囲まれ、「川で魚取り」と説明すると、オレも行く、私も網取ってくる、と、川でみんなで魚を取ることになった。
川に着くと、モユは「今日は水が多いね」と言いながら、土手にサンダルを置くとそのまま水に入っていった。
正直に言えば、アタシはこの同い年の従妹のことが苦手だ。
本人がどうこう、ではない。
アタシの家族は親戚を褒める時に、似たような家族を引き合いに出すような言い方を頻繁にする。
モユは時々の話を聞く限り、頭がよく友達も多く、妹たちの面倒も良く見る。つまりはアタシより良くできた優等生で、親戚の間でも悪い話を聞かない。
つまり、家族がモユの話をする時、アタシは必然、引き合いに出されて貶められることになる。
そんなことが重なった結果、モユが褒められる話を聞くだけで、自分が引き合いに出されていない時でも、アタシの自尊心は傷つけられる。『モユは出来た子なのに、なんでお前は』そう聞こえてしまうのだ。
とはいえ、目の前にしている限り、屈託なく笑うモユは良い子である。……悪い話を聞かないのも当然だ、というくらいには。まあ、感じの良いモユを見るだけで、アタシの劣等感は刺激されてしまうのだが。……そういえば、アタシは毎年、このド田舎のモユの家に来ているが、モユがアタシの家に来たことはない。劣等感を感じるのは、アウェーな環境ばかりなせいもあるかもしれない。
それはともかく、水に入っていったモユを追って、アタシとシュンもそれに倣う。
「ひゃあっ」
シュンが声をあげる。
くるぶしの上くらいまである川の水は、夏だというのにひんやり冷たかった。
「深いところもあるから気をつけてね」
「うん、わかった」
モユは慣れているのだろうけれども、アタシはこんな経験はない。
町内会の催しで行った太い川は、「水に入っちゃいけません」と言われて、河原で鍋をするだけだったし、普段見ている川は団地のドブ川だから、遊ぶなんて考えたこともない。
水も冷たいが、川の中の石もまた冷たいのに気付く。外気温は暑い日なのでとても気持ちが良い。
おっかなびっくり、川を歩いたり、手に持った網の柄を川に刺してみたりする。
少し大きな岩があるので座ってみる。水に濡れていない部分は熱されて少し暖かい。足を川で遊ばせるのも楽しい。
バシャバシャと水で遊んでいると部落の子たちが合流して、あっというまに大騒ぎになった。
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「それじゃ、そっちに追うから~~!!」
「オッケ~~!!」
力の限り、大声で呼びかけると、同じく大きな声が返ってくる。
アタシは、名前も知らない子たちと魚を追い回している。
水のなかで網を使うのは難しかった。
水の抵抗があるので、空中でトンボを取ったりするようには素早く動かせない。
アタシは背が低く、力が弱いから、思うように網を動かせなかった。
マサアキさんは、軽々網を振り回して、魚を取っていく。
(加藤清正ってこんな感じかな……。)
長柄の得物が、歴史上の槍の名手を勝手に想像させる。
多分違うだろうけど。
体が大きいというのはうらやましかった。
それでも、アタシと同じくらいの身長のモユは、魚を上手に網で掬っていた。
「どうなってんの?」
「説明できないけど、こう……コツがあんの。やってればそのうちわかるって」
ぐぬぬ。アタシは今日しかやれないのに。
部落の子たちもみんな上手かった。真似してみても、そのとおりにはいかない。
「じゃあさ、そっちから魚追って! こっちでさらうから!」
「わかったぁ!」
アタシがうまくやれないでいるのを見かねたのか、名前も知らない子に、魚を追い立てる役割をもらったりする。
うまくやれないでいる『よその子』を気遣えるやつだ。絶対普段モテてると思う。
「それじゃ、そっちに追うから~~!!」
狭苦しい団地の普段より、ずっと大声を出している気がする。
自然が近い田舎の空間はとても広く、自由を感じた。
どこまで音を出しても良いと思えるくらいに。
川で大勢で遊ぶのは楽しく、あっという間に時間が過ぎる。
日はまだまだ高いけれど、マサアキさんが「そろそろ帰ろうか」と言ったので商店に戻ることになった。
魚は全部部落の子たちのバケツに移してきた。勿体ない気もするが、飼う気があるわけでもない。
じゃあね、と大声で別れる。
部落の子たちも、帰る子もいれば、川でまだ遊ぶ子もいるようだった。
川の流れに足を取られそうになったり、不安定な川底で踏ん張ったり、普段使わない筋肉を使ったので、目白商店までの道は、少しの疲れを感じた。
「すごい、きれいで、たのしいところだよねえ……」
「うん。アタシもここに住みたいな」
「ええ~~?? 何もない田舎だよ。自然しかないよ」
しみじみ言ったアタシたち姉弟に、モユがツッコミを入れる。
「うーん、でもうちの近くは自然もないし」
「都会だし、劇場とか、ジャニーズが来るホールとかあるじゃん」
「それは街中だけだよ……」
同じ市内ではあるけれど。
大人の車に乗せてもらわなければ行くことができないのは、ここと変わらない。
アタシは続ける。
「それに、街中で遊ぶには、お金もかかるし。ここの方が良いよ」
「そっかあ……。都会も大変なんだね」
都会じゃないって言ってるのに。
「ここの田舎の自然は、僕は結構好きで自慢なんだよ」
マサアキさんが言う。
「他の地域の人にそう言ってもらえると嬉しいな」
マサアキさんはこの地域、この部落、この田舎で育った人だ。
「そうですか。本当にうらやましいです」
地元が好きという感覚はアタシにはなかったから、よくわからなかった。
「来年も来てね。楽しそうにしてくれてると、こっちまで嬉しいよ。そうだ、さっきの川で、毎年6月か7月初めには、蛍を見る祭りがあるんだ。夏休みの前だけど、来れたらぜひ見てくれ」
「ホタル! すごい! ぼく、ホタルみたことない!」
マサアキさんの言葉に、シュンが反応する。
「アタシもない。来年、来ます」
「いいね。待ってるよ。他にここでやりたいことあったらなんでも言って」
「あ、じゃあ、ぼく、タケノコとりたい。いつもおくってくれるやつ」
毎年、我が家には目白商店からタケノコが送られてくる。
同梱された店の商品とは別に、山から取ってきている物だった。
「あれはやめた方がいいよ。私、おじいちゃんとお父さんに連れていかれたことあるけど、朝早く暗いうちから行くし、泥だらけになって大変だもの」
モユが止めてくれる。
アタシも大変そうだと思っていたから、巻き込まれるのはごめんだ。
「朝早くから行くから、前の日うちに泊まればいい。楽しいぞぉ」
「はい!」
「アタシは嫌。シュン、アンタだけ行きなさい」
「ええ~~……ねえちゃんもいこうよ」
「ぷっ」
シュンの嘆きに、アハハ、とそれ以外の笑いがこだまする。
田舎の夏は本当に楽しかった。
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ふと、空を見上げる。
団地の空など比較にならない自由がそこにあった。
澄み切った空には雲1つない。夏の風景にありがちな入道雲もない。
大きな建物もない集落の道は狭いけれど、一歩出れば、山の方までずっと広大な空間。
狭い道にいてもその広さはずっとそばにあると思える。
アタシはこの日、この夏初めて太陽を見た気がする。
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第14話/99話 「空 高く遠く」 終




