第10話/99話 「始まり 気の進まない」
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7月17日(土)
「これ、楽譜。楽しみにしてるから」
先週の終わり、アキにそう言われて渡された数枚の楽譜を前に、朝からアタシは憂鬱だった。
五線譜に手描きで描かれた物をコピーしたような、目の前の楽譜は4年生の音楽の教科書に載っているものと難易度はそう変わらないように見える。
しかし吹けもしないフルートのための楽譜なのだ。
ママに話さなくてはいけない。
教えてくれるとしたらママだけだから。
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疲れた。
主に腕が。
ついでに頭が。肩が。
正直に、フルートがやりたい、というとママは快諾してくれた。
学生の頃、ママが自分で縫ったというバッグに、ビロードかなにかの布に包まれた銀色のフルートはとてもきれいで、大事に使わなくては、という気持ちにさせる。
ママは学生の頃に使っていた教則本を引っ張りだしてきて、基礎のやり方から教えてくれた。
各音の出し方を教えてくれた後にロングトーン。
フルートは1本しかないから、交互に使うしかない。
よく見て唇を同じようにしているはずなのに、アタシの音はママの音と違って、なんだかカスレて聞こえる。
それを言ったところ、ママは「アンブシュアっていう、口の形の訓練もあるから、後でやりましょうね」と言った。まずは指の形を覚えるところから、と。
指の形を覚えて、音を出しているだけであっという間に時は過ぎる。
楽譜を見て曲を演奏するのははるか先に思えた。
「毎日10分とか15分とかでも良いから、続けるのが大事よ。少しずつうまくなればいいんだから」
昼食のフレンチトーストを食べた後、再度ロングトーンの練習をするアタシに、ママは言う。
少しずつではなく、すぐにでも吹けるようになりたいのだが。
「今日はそれだけやって、明日はスケール、音階の練習もしましょう」
「おんかい?」
「抑える穴、指の方で順番に音を変えていくの。音で階段を作るみたいなイメージだから音階って聞いたわ。簡単な曲くらいすぐ吹けるようになるから、まず基礎が大事よ」
「今日教えてよ」
ママがわざわざ、指の方で、と言った理由をアタシはまだ知らない。
「指の形覚えてからね。それと、メトロノーム探しておかないと」
「メトロノームなら、ピアノの上にあったじゃん」
居間の、インテリアの役割しかしていないアップライトピアノの上に。
アタシが、先生が厳しいから行きたくないと言って、やめてしまってからは、あまり誰も触らないピアノの上に。
ママもパパも弾けるけれど、なにせ忙しい家族だ。まとまった時間がないと中々触らなくなっている。
「こないだ、掃除のときにどかしちゃったの。どこ行ったのかしら……。とにかく今日はロングトーンだけ」
「はぁい……」
焦っても良いことは無いらしい。仕方がない。
「それと、1年生から3年生までの音楽の教科書と、副読本、資料集っていうのかしら? 探しておきなさい」
「すぐ見つかると思うけど、なんで?」
「やることはリコーダーと同じ。基礎をやったら、簡単な曲をやるの。基礎と曲と、繰り返してうまくなるの。基礎の比重が、ほんっっっっの、すっこっし、だけ、多っい! ただそれだけですからね」
ほんの少し、そんなに力を入れなくてもいいのに。
ママはいつも大げさだ。
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「それにしても」
夕食を終え、教則本を眺めながら、手に持ったフルートの復習をするアタシにママは言う。
「どうして突然フルートをやる気になったの?」
そりゃまあ、気になるよね。
逡巡するアタシに、ママは続ける。
「ピアノやめちゃったのに。私、あれでシオリは音楽なんて嫌いになると思ってたわ」
まあそうだ。今でもピアノは好きじゃない。楽譜の読み方と音楽記号を覚えるのは楽しかったし、学校の音楽の授業が楽になったけど。
「ピアノは先生厳しくて嫌だった。音楽が嫌いなわけじゃない」
好きでもないけど。
「へえ。それなら良かったわ。音楽は素敵だもの」
全然その感覚は理解できない。
「……学校で、一緒に吹こうって言われたの。……楽器やってる子に」
「へえ。クラスの子?」
「うん。楽譜渡されて。見る?」
アタシは楽譜をママに見せる。
ママは1枚1枚を、ふんふん、と言いながらじっくり見ていく。
「1曲じゃなくて、いくつもあるのにちょっと驚いたけど、どれも吹くだけならそこまで難しくないわ。こっちの3つは私もやったことある。どれも楽しい曲よ」
「ふうん。どのくらいで出来る?」
「人によるからわからないわ。早くできるようになるより、楽しんでやる方が大事」
吹けなければ、出来るようにならなければ、楽しくないのではないか。アタシは内心ちょっとだけ反発する。
「ん。がんばる」
口には出すが、嫌いな言葉だ。
「発表会とかするの?」
「そんな予定ない。個人的に吹くだけだって」
アキはクラスの人気者である。一緒に吹くことを考えるだけでも少し気後れする。
人前でなんか吹けるものか。
「せっかく練習するのにもったいない。でも他人と合わせるのは楽しいわよ。どんな子なの?」
学生時代、吹奏楽をやっていた母には『練習=発表で誰かに聞いてもらうもの』なのだ。
どんな子、と聞かれてアタシは返答に困る。アキとはそんなに親しくない。
話の流れで、楽譜をいわば押し付けられただけだ。
「……背の高い、トランペットやってる子」
「楽器まで違うの!てっきりフルートだけで合わせるのかと思ってたわ。ますます楽しみね」
ママに冷やかされたくなくて、男子であることは言えなかった。
ママはいつも優しいけど、異性の話になると、すぐ彼氏彼女に、とか、好きな子がどう、とかいう話を始める。
大人にそういう話をされるのは昔から嫌いだった。まあ親戚のおじさんおばさんもそういう話を子供にする人ばかりだから、大人というのはそういうものなのかもしれない。
コイバナが好きな子供にでもしてやればいいのに。相手を選べ。
幸い、ママは『他の楽器と合わせる』という部分に興味がいったらしく、楽譜を見ながら、ふんふんふふん、と楽しげに鼻歌を鳴らし、それ以上の追及はしてこなかった。
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第10話/99話 「始まり 気の進まない」 終




