第9話/99話 「努力 アタシはそれを知らない」
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アタシは努力という言葉が嫌いだ。
耳あたりが良いだけの言葉だから。
結果が出なかったときに、これだけやったから、と慰めるだけの言葉だから。
使う人間が過程に満足するための言葉だから。
日頃から正しい人間だけが評価される言葉だから。
それを正しく評価できる人間がいるとは思えないから。
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7月5日(月)
――ファアアアアアアァァァン
かすかにといえばかすかに。
他に音がないため、耳をすまさなくても聞こえる程度には大きいラッパの音が、スタジオから機械室に漏れ出ている。
今日も今日とて。
美雲くんはスタジオでトランペット――ラッパというと怒る人がいるらしいのでこう書く――をかき鳴らしていた。
彼がもう放送室に来るようになって、1ヶ月くらいになるだろうか。
5年生が合唱で音楽室を使う間、とのことだからそろそろ終わりかもしれない。
今月の後半からは夏休みだから、合唱の本番があるならその前だろう。
委員会の当番表に書いてあった相方は5年生の静かな子。
合唱で音楽室を使っているクラスの子だから、校内放送を入れる直前まで放送室に来ないと聞いている。
よって、今機械室にはアタシ1人。宿題をする女子が1人。
スタジオには、普段の人懐っこくてよく笑う様子とは裏腹に、分厚いガラス越しでもわかる程度には、鬼気迫る様子で集中する男子が一人。
背表紙が赤と白の少女漫画なら、切り取って何かが始まる場面が描けたりするのかもしれない。が、残念ながら、女子に人気の美雲くんはともかく、アタシみたいな、こんな汚いクソガキではそんなことにならない。
それにしても本当によく練習するやつだ。
アタシは委員の中でも、最も頻繁に、放課後の放送室に来ている人間だが、毎回美雲くんは顔を出す。ひょっとすると平日は毎日来ているのかもしれない。
初めのうちは物珍しさに、何か吹いてと5年生も6年生もみんなリクエストしていた。
美雲くんはそれに必ず応える。
楽譜も見ずに様々な曲を演奏する。
涼しい顔で。吹く前と後の顔は、誰もが好きになってしまいそうな笑顔で。
機械室に背を向けているため、こちらから見ることの叶わぬ顔は、リクエストに応えるその表情ではおそらくない。
今では彼に曲を吹いてと頼む放送委員はいない。
真剣に練習する彼を一度見れば、軽々しくリクエストで時間を潰させるのは申し訳ないと思ってしまうのだ。
肩にかけたタオルで汗を時々拭きながら、美雲くんはとにかく吹き続ける。
数日前に、団地の裏の崖が崩れるのではないかというほどの大雨が降った。今日も空が朝からグズついているから外の湿度は高いが、防音のコルクの壁は湿気をある程度調節するため、室内の湿度は高くない。
今年は7月に入ってからも、毎日の最高気温は高くても20℃そこそこで、肌寒いとさえ感じることもある。
だというのに。
汗を流しながら、その汗を拭いながら、美雲くんは吹き続ける。
何が楽しいのか、何が彼を掻き立てるのか。
その顔の前に構えた金色のラッパに、他にいくらでも選べる遊びがあって、クラスの人気者で友達が大勢いて、誘惑も多いであろう10歳の少年を夢中にさせるだけの何があるのか。
ピカピカ光る金属の塗装に騙されているのではないか。
――トランペットの黄金の輝きが、厳密に言えばメッキではないことをこの時のアタシはまだ知らない――
『頑張ってる子ってかっこいいね』――初めてここでトランペットを吹く彼を見たときに、ヨリコちゃんが言っていた言葉が思い出される。
かっこいいかどうかは知らない。割とどうでもいい。
トランペットが吹けなくても、毎日練習しなくても、十分にあいつはクラスのヒエラルキー上位者、カースト最上位の1軍だ。
ただその、手に持つそれの、同世代の男子を惹きつける魅力をアタシは知りたいと思った。少しだけ。
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宿題を終えたアタシはゲームブックを取り出す。
最近覚えた、1人で時間の潰せるそれは小説や漫画と同じくらいアタシのお気に入りだった。
作者や筆者の書いたものを受動的に読んでいく小説等も良いが、選択肢を選んでいく自分が主体的に感じられるのが魅力だった。
ただ、出来れば、やるのは1人の時が良い。
ページをいったりきたり、動作が多くなってしまうゲームブックは、他から見るとどうしても気になる動きだし、それは他人からの目線がことさら気になるアタシには致命的だ。
家だと家族もいるし、シュンはこの手のものも好きだから、一緒にやってやってとせがまれる。
集中できる1人の時間は貴重だ。
と、音が止んでいるのに気付く。
スタジオから機械室に、美雲くんが戻ってきていた。
手にはいつも足元に敷いている雑巾を持っているから、今日の練習は終わりらしい。
そのままトランペットをかばんにしまった彼は、アタシの方に目をやる。
「お、ドラクエ」
アタシの手の中にある本を見て、美雲くんは呟く。
「それ、何? 攻略本? 小説? マンガ?」
「ゲームブック。知らないの」
知っていて当然、という風にアタシは返す。
実際、他人がどのくらいこれをやっているのかは知らない。本屋で平積みになっているのを見たことは無いし、コーナーも限られるから、売れている数は多くはないと思う。
知っているのが当たり前、と返したのはアタシの防衛本能かもしれない。少しマニアックなものである自覚はある。
少数派であること、マニアであること、変わったやつであることへの、排斥と言っていいほどの風当たりは、はるか未来の令和の時代よりこの時代ずっと強い。
「知らないな。初めて見た。どういうものなの?」
アタシの少しの強がりを知ってか知らずか、美雲くんはあくまで自然体で訊き返す。
見せながらでないと説明しづらいので、ちょいちょい、とそばに寄るように手で呼んでやる。
「今読んでる場面から、せんたくしを選んで、そのページと番号のところに飛ぶんだよ。ずっと真っ直ぐ読み進める小説と違って、先の展開を自分で選べるの」
「ほうほう。なるほど?」
「負けた敵が許してくれって言ったのを許すか、それとも殺すか。とか、宝箱から何を持っていくか、とかそんな感じ。それぞれゲームブックにあったメモ用紙が付いてるんだけど、何回も遊べるようにメモ用紙をコピーしておくわけ」
「へえ面白そう。僕もやってみようかな」
「ん。その気になったら声かけて。貸してあげてもいい」
キモイ、とか言われなくてよかった、とアタシは内心胸を撫でおろす。
「マンガは持ってきちゃダメだけど、これはいいんだ」
「んー、小説が良いならいいんじゃない? 怒られたことないし」
「そっか」
はっきり先生に訊いたわけではないけれど。万が一そうして禁止されても藪蛇だし。
「でもゲームなら、TVで本物のゲームやればいいんじゃないの? わざわざ本でやらなくてもよくない?」
「うち、ゲーム機ないし」
「あ、そうなんだ。……知らなかった」
「いいよ。別に」
本物のゲーム、との発言に、自分の持っている本が偽物と言われている気がして、少しだけ傷つく。
ゲームブックには、元ネタのゲームのバグを再現したものがあったりもする。ファンにはうれしいサービスなのだが、その元ネタをアタシはほとんど知らない。
少し変な空気になりそうだったので、話題を変える。
「今日はもう練習終わりなの?」
「うん。時計見たらもうすぐ終わりの時間だったし、キリがよかったから」
「ふうん。キリとかあるんだ」
いつも同じ曲を、あるいは似たような曲を、ずっと繰り返し吹いてるように聞こえるけど。漏れ伝わる小さな音だから判別できないのかな。
「うん。一緒に帰る?」
「美雲くん、家どこなの」
「シオリちゃんの家を通り過ぎて奥の方。こども会の地区一緒じゃん」
そういえばそうだ。学校の外で話した記憶はないけれど。
「……ああ。……じゃあ教室で待ってて。もう1人の委員の子来たら帰りの放送入れるから」
そろそろ5年生の子も来るはずだ。
「今放送入れればいいんじゃない?」
「2人以上でやるのが規則だからダメ」
「僕が手伝うから、そしたら2人でしょ」
「そもそも時間になってないからダメ。委員でもないでしょ」
あ、そっかあ、と笑う美雲くん。誤魔化し笑いにしては、負の要素が微塵も感じられない笑い方に少しだけ心が動かされる。友達が多い理由が少しだけわかる。
じゃあ待ってる、と言い、かばんを肩に美雲くんは放送室から去っていった。
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「シオリちゃんってさあ、割といつも放送室いるよね。僕が初めて使わせてもらった日とその後なんか、3日連続でいたし」
「ああ、4年生の放課後の担当引き受けてるだけ。……その3日間は、多分、6年生が修学旅行でいなかった日だと思う」
帰り道、美雲くんの声は雨の中でもよく通る。
背が高く、物理的に高い位置から声を出しているのもあるかもしれないけど、とにかくよく聞こえる。
アタシの声は、少し大きく出さないと雨の中では聞こえないような気がする。
「そうなんだ。放課後、忙しいこともあるのに委員の仕事、大変だね」
「……別に。美雲くんもさあ」
「アキでいいよ、みんなそう呼ぶし。呼び捨てでいい」
「ん……。アキもさ、毎日放送室来てるじゃん。アタシ来ると、いっつもいる気がする」
「毎日じゃないよ。友達と遊ぶ日もあるし」
「一生懸命練習してるから、印象強いだけ?」
「多分そうじゃないかな」
友達と遊ぶ日、の頻度がどのくらいかはわからない。週に1回か、月に何回か。
アタシの見たことのある放課後の姿は、トランペットを練習しているところだけだ。
まあクラスでの姿を見るに、遊ぶ友達に困ったりもしないだろう。
「ふーん。あ、6年生の子が、頑張ってるアキがかっこいいって、言ってたよ」
「え、うそ。その子かわいい?」
「うん、すごい美人さんの」
「へえ~……。がんばってるって……、吹くのが楽しいだけなんだけどなあ。かっこいいって言われるのはうれしいね」
頑張っている、と言われて謙遜しているのか、アキはそんな風に言う。
トランペットを吹いているこいつはいつも真剣で、楽しそうには思えない。アタシの目にはそう映る。
「トランぺットってそんなに楽しい?」
「楽しいよ」
アタシの単純な疑問に、単純な答えが返ってくる。
「どんな風に?」
「ん~……、毎日うまくなるところ? 吹けば吹くほど、自分が上手になってるって思う」
「毎日、汗流して、必死に吹いて、アタシには楽しそうには見えないけどな」
「真剣に吹かなきゃ、上手くなんないし、楽しくないよ」
「ふうん、よくわかんない」
毎日練習しても上達したいとか、よくわからない感覚だった。
アタシには、それほど熱中できるものはない。
「楽器やるとわかるんじゃないかな。やらなきゃわからないよ。シオリちゃんは何か楽器やらないの?」
そういわれても。
「ピアノは全然うまくならないからやめちゃったし……。フルートならうちにある」
吹けるとは言っていない。
ママの笛である。最近は吹いてないけど。
「え、そうなの?」
ずっと穏やかだったアキの声が、今日唯一上ずった気がする。
明らかに声のトーンが一段高い。
吹けるといった覚えはない。
「じゃ、じゃあさ! 今度いっしょに吹こうよ。僕の先生、楽譜作ってくれるから、フルートの楽譜もできるよ」
吹けるといった覚えはない。
アキは続けて言う。
「楽しみだなあ。シオリちゃん、どんな曲が良い? クラシック? 流行りの曲? アニメソング? 洋楽は歌詞わからないけど、吹くだけなら関係ないよね!」
「アタシ普段、あんまり音楽聞かないから、わかんないよ……。ラジオくらいしかない」
「じゃあ、先生に言って、いくつか用意してもらう!」
「え、えぅ……ぅん」
吹けるといった覚えはない。のだが、勢いに負けて肯定のような返事をしてしまう。
アタシの家の前まで来ると、アキはもう一度念を押すかのようにこう言った。
「じゃあ、シオリちゃん。今度一緒にやろうね」
「うん。じゃあ。……アタシも呼び捨てでいい」
「はーい、それじゃ」
薄暗い雨の中、アキは何度も手を振って、帰っていった。
吹けるとは言っていない。
が、相手にそう受け取られてしまったのなら、それはもう言っているようなものなのだ。
練習しなければいけないのだろうか。
明日、会ったときにでも、吹けないと話してしまおうか。
しかし、アキの楽しそうな様子を見るに、言ってしまえばがっかりさせる。
どうしたものか。
アタシは、吹けもしないフルートの話なんぞするのではなかった、と後悔した。
この時のことを振り返るたび、後悔は何度もすることになる。
何度も、何度も。
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第9話/99話 「努力 アタシはそれを知らない」 終




