第92話 夜が割れ、聖獣が墜ち、救われたいと願った夜に、終わりの巫女は微笑む
……来る。
理由はわからないし、根拠もない。
けれど、確かに――誰かが、こちらへ向かっている。
ミレフィーオの胸の奥で、か細い灯が揺れた。
(……この感じ……)
恐怖に押し潰されそうだった意識の底で、それは不意に差し込んだ、朝の光のようだった。
誰かが来てくれる。自分を探している。
――まだ、終わりじゃない。
(……待ってる……誰かが……)
闇の圧が、ほんのわずかに緩む。それだけで、呼吸が少しだけ楽になった。
その瞬間。
暗闇が、割れた。
音もなく、光でもなく、“夜そのもの”が、すっと道を開ける。
そこに立っていたのは――ひとりの巫女。
黒衣。夜空を写し取ったような深い色のヴェール。星屑のような銀糸が、裾で静かに揺れている。
彼女の輪郭は、まるで闇そのものが内側から淡く光を放っているかのように、はっきりと浮かび上がっていた。
その姿は、あまりにも――整いすぎていた。
ただそこに立つだけで、聖域の空気を変えるような、静かな威厳があった。
(……た、助け……? リディアーヌ様じゃないけど私の知らない聖女様?)
胸が、きゅっと高鳴る。
「……あ……」
声が、震える。
「……来て、くれたん……ですか……?」
その巫女は、答えない。ただ、ゆっくりとミレフィーオへ歩み寄ってくる。
足音はない。それなのに、一歩ごとに空気が冷えていく。
(……?)
違和感。
聖女がまとうはずのものは、安らぎであり、祈りであり、温もりのはずだ。
だが、彼女から漂うのは――終わりの気配。
腐臭ではない。瘴気とも、呪詛とも違う。
もっと静かで、もっと残酷なもの。
すべてを「終わらせた後」に残る、夜の匂い。
(……ちが……う……)
ミレフィーオは、はっと息を呑んだ。
この人は、救うために来たのではない。そして祈るためでも、導くためでもない。
――弔う側だ。
「……あなた……は……」
問いかけようとした、その瞬間。
――バキィッ!!
闇が、爆ぜた。
悲鳴のような音と共に、黒い結界が内側から引き裂かれる。
「――――ッ!!」
金色の光が、夜を裂いて飛び込んでくる。
血に濡れ、光を失いかけた小さな身体。翼は裂け、呼吸は荒く、今にも消えそうな鼓動。
「……イル……ヴァ……!」
聖獣イルヴァだった。
それは飛翔ではなかった。ただ、落ちてきただけ。
それでも、必死に前脚を伸ばし、ミレフィーオの胸元へと――すがりつく。
『……ミ……レ……フィ……』
声にならない、思念。それだけで、どれほど無理をしたかが分かる。
「だめ……! そんな……身体で……!」
抱き留めた瞬間、イルヴァの体温が、あまりにも低いことに気づく。
光が、弱い。
それでも、確かに生きている。
そして――。
イルヴァが、震える首を、巫女の方へ向けた。
金色の瞳が、恐怖に見開かれる。
『――……ツ……キ……ノ……ヨ……』
その瞬間。
結界の裂け目から、夜の帳を裂くように一筋の光が差し込んだ。
その光は、巫女のヴェールをやわらかく透かし、まるで闇の中に浮かぶ幻のように、彼女の顔立ちを照らし出す。
白銀のような髪が、光を受けてかすかにきらめいた。
その横顔は、静謐で、どこかこの世のものとは思えないほどに整っていた。
閉じられた瞳の奥に、遠い昔、大陸を照らした光の記憶が、今もなお息づいている。
――あまりにも、似ていた。
心臓が、凍りつく。
「……セ……レーネ……様……?」
思わず、名を呼んでしまう。
だが、その巫女は――ゆっくりと、目を開いた。
その瞳に宿るのは、陽光でもなければ、星のきらめきでもない。
夜が、静かに死を抱きしめるために編んだ、深淵の色。
「いいえ」
その声は、風のない夜に落ちる露のように、ひどく静かだった。
祈りではない。慰めでもない。ただ、終わりを告げるための、澄んだ音。
「私の名は――セレナーデ・モルテフォール」
夜葬の巫女。
星が生を導くなら、彼女は、終わりを静かに包む者。その身に宿すのは、セレーネの“形”を借りた、虚無の残響。
闇の中に立つその姿は、まるで夜そのものが人の形をとったかのように、この世の理から、そっと外れていた。
ミレフィーオは、息をすることすら忘れていた。
胸の奥で、何かが凍りついたまま、動かない。
助けが来た――そう思った。けれど、それは違った。
それは、救済と破滅が、ひとつの顔をして現れる瞬間。
夜が、静かにその姿をもって告げる。
――選べ、と。
生きるか。
終わるか。
その狭間に、ひとり取り残された小さな聖女候補は、傷ついた聖獣を胸に抱き、闇の中で身を縮めていた。
その身を包むのは、夜の静寂。
その心を裂くのは、選択の重み。
そして、世界はただ、息をひそめていた。
彼女の答えを、待つように。




