第91話 奇跡のあとに残ったもの、回り続ける羽根と水の音
村の外れ。
芽吹いた草地の先で、白い羽根を持つその建物は、変わらず静かに佇んでいた。
風は、ほとんどない。
それでも――羽根は、ゆっくりと回っている。
「……あれ、ですけど」
柚葉が、控えめに手を挙げた。
集まっていた村人たちの視線が、一斉に柚葉へ向く。さっきまで祈るように見上げていたその目が、今は少し戸惑いを帯びている。
「えっと……あれ、危ないものじゃない、です」
そう前置きしてから、彼女は風車小屋を指さした。
「たぶん……この村が、ちゃんと生き返ったから……“回り始めた”だけで」
「……回り始めた、だけ……?」
誰かが、喉を鳴らした。
羽根は大きく、建物も高い。用途不明、理屈不明。
それを“だけ”で済ませるには、存在感がありすぎた。
柚葉は、少しだけ困ったように笑う。
「説明、すると……その……」
一瞬、言葉を探すように視線を泳がせてから。
「――水を、動かすためのもの、です」
静まり返る。
「水……?」
「はい」
柚葉は頷いた。
「畑に引く水とか。井戸からくみ上げるのを、手伝ってくれたりとか……」
言いながら、再び風車の羽根を見上げる。
その回転は、変わらない。一定で、穏やかで、まるで心臓の鼓動のようだった。
「風を受けて羽根が回ると、その動きが中の歯車に伝わって……それで、下にあるポンプが動くんです。たぶん、スクリューみたいな仕組みで、水を少しずつ上に押し上げてるんだと思います」
そこまで言って、柚葉は少し照れたように笑った。
「……って言っても、そこまで専門的にわかってるわけじゃないんですけど」
小さく、息を吸って。
「でも、たくさん力を使うわけじゃなくて……風が吹いてるかぎり、ずっと、止まらずに……」
その声には、どこか不思議そうな響きが混じっていた。
「この村が“巡る”なら。きっと、あれも一緒に、巡るんだと思います」
沈黙。
誰も、すぐには理解できなかった。
けれど――否定する者も、いなかった。
やがて。
「……試してみるか」
誰かが、ぽつりと呟いた。
それは、畑仕事一筋の中年の男だった。土に汚れた手で、恐る恐る一歩、前へ出る。
「水を……動かすってんなら……用水路に、繋げてみりゃ、分かる」
その言葉を皮切りに、村人たちが動き始めた。
誰かが縄を持ち。
誰かが古い木管を引っ張り出し。
誰かが、半信半疑のまま、それでも真剣に手を動かす。
風車は、黙って回り続けている。
やがて――
「……繋いだぞ」
小屋の裏。
簡易的に組まれた水路が、井戸へと延びていた。
全員が、息を詰める。
羽根が――一度だけ、わずかに速く回った。
ご……と、低い音。
次の瞬間。
――ざあ、と。
「……!」
水だった。
井戸から引かれた水が、確かに流れ出し、用水路を伝って、畑の方へと向かっていく。
止まらない。
途切れない。
無理のない、穏やかな流れ。
「……出てる……」
「勝手に……?」
「いや……回ってる……あの羽根が……」
誰かが、土に触れた。
水を含んだ土が、ゆっくりと色を変える。
風車小屋の中に、低く、安定した音が満ちていく。
ごう、と荒々しいものではない。
ごとり、ごとり、と――大きな歯車が確かに噛み合い、力が伝わっていく、安心するような響きだった。
「……動いてる」
誰かが、呟いた。
風を受けた羽根が、ゆっくりと回り続け、その動きに合わせるように、地下へと伸びた水路から、清らかな水が引き上げられていく。
しばらくして。
「……あっ!」
井戸のそばにいた子どもが、弾かれたように声を上げた。
木製の水樋の先から、細く、しかし絶え間ない水の流れが生まれ、桶の中へと注がれ始めている。
「水……水が、勝手に来てる!」
ぱしゃ、と水が跳ねる。
それだけで、子どもたちは一斉に駆け寄った。
「すごい! くむの、待たなくていい!」
「重たい桶、持たなくていいんだ!」
小さな手が、水に触れる。
冷たくて、澄んでいて――ちゃんと“生きている水”。
その様子を、少し離れたところから見ていた老人が、杖に手をついたまま、呆然と呟いた。
「……もう、井戸まで何往復もしなくていいのか……」
これまで、水汲みは重労働だった。年寄りも、子どもも、腰を痛めながら、息を切らしながら、それでもやらねばならなかった仕事。
「じっちゃん!」
さっき水ではしゃいでいた子が、振り返って叫ぶ。
「もう、無理しなくていいんだって! これ、ずっと出てる!」
老人は、言葉を失ったまま、しばらく風車を見上げていた。
回り続ける羽根。
規則正しい音。
止まらない水。
「……そうか」
皺だらけの目尻から、ぽろりと涙が落ちる。
「……わしらの代で、楽になっていいんだな……」
その背を、隣にいた村人が、そっと支えた。
別の場所では、少女たちが桶を軽々と運びながら、顔を見合わせている。
「ねえ、これなら畑に水引くのも、すぐだよね?」
「夕方までに終わるかも……!」
笑い声が、弾み、未来の話が、自然と口からこぼれる。
それを、柚葉は少し離れた場所から見ていた。
風車の音。
水の流れる音。
人の声。
どれもが、奇跡を誇示するものではなく――ただ、生活の音だった。
(……よかった)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
誰かが楽になる。誰かが、明日を少し楽しみにできる。
それだけで、十分だった。
ルシエルが、隣で小さく微笑む。
「世界が、ちゃんと回り始めた音がするね」
柚葉は、風車を見上げながら、頷いた。
「うん……静かだけど、大事な音」
回り続ける羽根の下で、
クンナ村の“新しい日常”が、ゆっくりと動き出していた。
柚葉は、その様子を少し離れた場所から見ていた。
胸の奥が、ふわりと温かい。
(……ちゃんと、動いた)
ルシエルが、隣で小さく頷く。
「うん。……無理してない」
ヒジカタは、風車を見上げ、低く息を吐いた。
「……静かな力、ですな」
リリアは――言葉を失っていた。
目を輝かせ、羽根と水路と大地を、忙しなく見比べている。
そして。
セラフリエルは、両手で口元を押さえながら、必死に呟いていた。
「……持続型……生活補助……尊……いえ、監察……これは監察……!」
誰にも聞かれないように。
風車は、回り続ける。
奇跡の余熱ではない。
祝福の残光でもない。
――これからの“暮らし”として。
クンナ村に、新しい鼓動が刻まれた瞬間だった。
柚葉は、そっと息を吐き、空を見上げる。
「……よかった」
それだけで、今は十分だった。




