第90話 風は止まず、祈りは集い、一人の聖女が光を伴い希望の中心に立つ
光が、静かに引いていく。
朝霧に包まれていたクンナ村は、まるで長い眠りから目覚めたかのように、ゆっくりと息を吹き返していた。
芽吹いた若草が風に揺れ、畑には土の匂いが戻り、家畜たちは久しく忘れていた力強い鳴き声を上げている。
――そして、その景色の片隅。
牧草地の奥、緑の広がりの向こうに、ひとつの建造物が静かに佇んでいた。
高く組まれた木造の小屋。
赤茶色の屋根。
側面から突き出した、四枚の巨大な白い羽根。
風はほとんど吹いていない。それでも羽根は、低い音を立て、規則正しく回り続けている。
まるで――
この地そのものが、脈打っているかのように。
その光景を、領主クラウスは無言で見つめていた。
魔剣を帯びたまま、しばし動かない。
王国特別監査官として、彼はこれまで数多の惨状と、奇跡と呼ばれる現象を見てきた。
だが、これは違う。
荒れ果てていた土地が蘇った。
村が息を吹き返した。
――それだけでは終わっていない。
(……この奇跡は、回復ではない)
視線が、自然と風車へと向く。
用途は不明。
王国の記録にも、既存の建築様式にも当てはまらない。それでいて、異物のような拒絶感はない。
(……“これから”を内包した形だ)
土地を生かし、村を支え、生活に溶け込む――そんな予感だけが、確かな輪郭をもって胸に残る。
魔剣の柄から、そっと手を離す。
クラウスは静かに息を整えると、一歩、前へ出た。
そして――膝は、折らなかった。
代わりに、胸に拳を当て、王国式の正式な礼を取る。
「……星降りの巫女、星雫の聖女ユズハ・スターリィティア殿」
声は低く、だが、わずかに揺れていた。
若さを抑え込もうとする理性と、溢れかけた感情が、拮抗している。
「私は、この地を預かる者であり、同時に、王国特別監査官として多くの“破壊”を見てきました」
一拍。
「ですが――“取り戻された未来”を、これほどはっきりと見たのは、初めてです」
芽吹く大地。
息を吹き返した家畜。
清冽な水を湛える井戸。
そして――静かに回り続ける、用途も理屈も分からぬ建造物。
視線は、柚葉から逸らさない。
逃げない。誤魔化さない。
「クンナ村は、確かに救われました。……いいえ、それ以上です」
言葉を選び、噛み締めるように続ける。
「この地に生きる者たちの『明日を信じる理由』を、あなたは取り戻した」
ほんの一瞬、唇を噛み――それでも、感情が滲んだ。
「領主として、監査官として、そして一人の人間として。深く、感謝を申し上げます」
最後に、わずかに、しかし確かに頭を下げる。
それは、形式ではない。若き男の、真心からの礼だった。
「――え、えっ!?」
柚葉は、思わず一歩後ずさった。
「ち、ちが……そんな、そんな大げさなこと、してないですから……!」
慌てる柚葉に、クラウスは、建造物の方を一瞬だけ横目で見てから、わずかに困ったように笑った。
「……それでも。この村に“説明のつかない希望”が生まれたことだけは、否定できません」
その笑みは、領主ではなく、年相応の青年のものだった。
だが、その背後で。
ざわり、と空気が揺れた。
村人たちが、いつの間にか集まり始めていたのだ。
杖をついた老人。
子どもを抱き寄せる母親。
畑仕事の途中だったのだろう、土に汚れたままの男たち。
彼らは皆、同じものを見てきた。
芽吹いた大地。
息を吹き返した家畜。
澄み切った水を湛えた井戸。
そして――牧草地の向こうで、静かに羽根を回し続ける、見知らぬ建物。
風がないのに、規則正しく回る白い羽根。
誰もその意味を知らない。だが、なぜか目を逸らせなかった。
奇跡は終わっていない。そう、無言で告げられているようで。
村人たちは、やがて一人、また一人と柚葉の前に進み出て――
膝をついた。
「ありがとうございます……聖女様……」
「もう、この村は終わりだと思っていました……」
「子どもが……朝から、走り回ることができて……!」
声は震え、言葉は途切れ途切れで。祈りの形も、礼の仕方も、皆ばらばらだった。
それでも、想いだけは同じだった。
地面に額をつける者。
両手を組み、ただ目を閉じる者。
涙を堪えきれず、嗚咽を漏らす者。
そのすべてが、朝の光の中に溶けていく。
柚葉の視界が、ふっとにじんだ。
(……あ)
胸の奥が、静かに締めつけられる。
さっきまで、彼女はただ――できることを、しただけだった。
治したいと思った。
助けたいと思った。
もう一度、みなが喜ぶ景色を見たいと思った。
それだけだったはずなのに。
今、向けられている視線は、違う。
期待。
感謝。
畏れ。
そして――無心な祈り。
風車の羽根が、くう、と低い音を立てて回る。まるで、その感情を受け止める器のように。
柚葉は、小さく息を吸った。
「……そんな顔で、見ないでください」
声は、驚くほど静かだった。
誰に向けたものでもなく。誰かに届くことも、期待せず。
(あたし、聖女なんかじゃない)
胸の奥で、言葉がほどける。
この世界の“聖女”は、きっともっと――
揺るがなくて。
覚悟があって。
奇跡に、慣れている存在だ。
だけど自分は違う。
ただ、手を伸ばしただけ。隣にいる温もりを、信じただけ。
それなのに――世界が、応えてくれた。
羽根の回転は止まらない。
村人たちの祈りも、止まらない。
柚葉は、戸惑いを抱えたまま、そこに立っていた。
――奇跡の中心で。まだ、その意味を知らないまま。
それなのに――。
「ユズハ」
隣から、そっと声がした。
ルシエルだった。
彼は何も言わず、ただ彼女の手を、もう一度しっかりと握る。
その温もりに、柚葉ははっと息を吸った。
自分は、一人じゃない。
独りで背負う必要なんて、最初からなかった。
「……ありがとう、ございます」
柚葉は、ぎこちなくそこにひざまずく村人たちに頭を下げた。
聖女としてではなく。
一人の人として。
「でも……あたし、完璧じゃないですし、なんでも出来るわけじゃないです」
正直な言葉だった。
それでも、顔を上げる。
「それでも……出来ることは、やります。出来る範囲で、精一杯」
村人たちは、一瞬きょとんとしたあと――。
誰かが、笑った。
「それで、十分です」
「それでこそ……ですね」
柔らかな空気が、村に満ちる。
柚葉は胸の奥で、まだ小さく揺れる不安を感じながらも。
(……これが、“聖女として見られる”ってこと、なんだ)
そう、初めて実感していた。
信仰は、重い。
期待は、怖い。
けれど。
誰かの「明日」を信じる気持ちが、こんなにも真っ直ぐに向けられるのなら。
――逃げてばかりも、いられない。
柚葉は、ルシエルの手を、ほんの少しだけ強く握り返した。
(……ゆっくりでいい)
(あたしなりのやり方で、進めばいい)
クンナ村の空には、澄んだ朝の光が広がっていた。
奇跡の余韻の中で、柚葉は“聖女としての一歩”を、まだ戸惑いながらも、確かに踏み出していた。
ガルディウス、ヒジカタ、リリア達が出会う短編となります。お時間のあるときにでも、こちらも読んでいただけたら幸いです。
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