第87話 ここから始まる、星雫の聖女と光の王子の再生譚
――ここからだ。
そう、自覚した柚葉は、そっと目を閉じた。
胸の奥で脈打つ鼓動と、手のひら越しに伝わるルシエルの温もり。
異世界の大地、虚邪の穢れに侵されたこの土地で――それでも、自分は「何か」を掴みかけている。
(……思い出せ)
自分は、どうやって“世界”と向き合ってきた?
どうやって、壊れそうなものを、形にしてきた?
問いかけた瞬間、意識の奥で、ふっと景色が切り替わった。
――薄暗い室内。
――独特の塗料の匂い。
――カッターの刃が、プラ板を滑る音。
「あー、ゆず、そこ違う違う! 風車の羽根、オランダ式は角度が命なんだって!」
少し高めの声で、身振り手振りを交えながら語る兄の姿が浮かぶ。
模型に関してだけはやたらと熱くて、細かくて、でも誰よりも楽しそうだった、尊敬するプロモデラーの兄。
「はいはい、分かってますよー。……ほら、こう?」
「おっ、そうそう! その調子!」
そのやり取りの横で、腕を組んで頷いているのは、模型店の店長――ぷーやん。
「いいねぇ……この風車。ゆずちゃん、前より“風”を感じる造りになってきたじゃん」
「ほんとですか?」
「ほんとほんと。急ぐと雑になるけど、集中した時のゆずちゃんは強いよ」
その言葉に、少し照れながらも、胸の奥がじんわり温かくなった感覚。
さらに思い出は広がっていく。
床いっぱいに広げられた、ベースボード。起伏を付けた発泡材に、石畳を一つ一つ貼っていく地道な作業。
「ねえ柚葉、この麦畑、ちょっと単調じゃない?」
ルカがそう言って、色見本を差し出す。
「じゃあ、色を三段階に分けてみる?」
「いいじゃん! 奥行き出るかも!」
その隣で、ひなが小さな草をピンセットで植えながら笑っていた。
「牛さんの位置、ちょっと変えよ? こっちの方が可愛い!」
「ひな、それ完全に趣味でしょ」
「だって大事だよ? “暮らしてる感”!」
みんなで笑って、また作業に戻る。
風車が回り、麦畑が波打ち、牧草地には牛と羊がのんびりと放牧されている。
オランダの田園風景のジオラマ。
納期がきつくて、時間が経つのが早すぎて、気がつけば徹夜明けで、目がしょぼしょぼしていた。
それでも――
(……楽しかった)
心から、そう思えた。
壊れやすいパーツを、慎重に扱い。足りない素材は工夫して補い。失敗したら、やり直して、また考える。
誰かと一緒に、一つの“世界”を、形にしていく時間。
それは、現実でも、模型でも――きっと、世界が違っても、同じことなのだ。
柚葉は、ゆっくりと息を吸った。
(……そうだ)
この土地は、今は穢れている。壊れて、歪んで、傷だらけだ。
でも。
壊れているなら、歪んでいるなら――直せるかもしれない。
完璧じゃなくてもいいし、一気に全部しなくてもいい。
できるところから、手の届く範囲から。
柚葉の脳裏に、ジオラマの風車が回り始める。
静かに、確かに、風を受けて。
(……まずは、下地作りだ)
その確信が、胸の奥で、はっきりと形を持ち始めていた。
――胸の奥で、何かが確かに“動いた”。
それは音ではなかった。
言葉でも、感情でもない。
脈動だった。
(……来た)
柚葉は、そう確信する。
恐怖はなかった。迷いもない。
胸の中心、ずっと静かに眠っていた場所が、まるで「思い出せ」と促すように、ゆっくりと鼓動を刻み始めた。
――模型神。
かつて、形を与えることで世界を救った存在。
無数の“作る手”と“願う心”が重なり、現実と想像の境界を溶かした、あの神性。
(……あたしは、作ってきた)
壊れたものを、欠けたものを、「もう一度、在るべき姿に」
柚葉の脳裏に、あのジオラマの光景が、もう一度、鮮やかに立ち上がる。
回る風車。
揺れる麦。
放牧された牛と羊。
作り物なのに、確かに“生きていた”景色。
あの時と同じだ。
この村も、今は壊れている。穢れに侵され、未来が削られかけている。
でも――作り直せない理由なんて、どこにもない。
「……ルシエル」
柚葉が名を呼ぶ。
「うん」
彼は、すでに気づいていた。彼女の内側で、何かが目覚めたことを。
握られた手から、光があふれ始める。
それは、これまで彼が使ってきた“光の加護”とは、まるで違っていた。剣技のための光でも、陽光の威光でもない。
寄り添うための光。
「貸すよ。全部」
ルシエルの声は、静かで、温かい。
「君が行きたい場所まで」
その瞬間。
柚葉の背後に、黒い蝶が舞った。
星降りの巫女として、これまで幾度も傷を癒してきた、黒蝶の治療。
だが――。
黒は、変わり始めていた。
夜の色だった羽根に、星の雫のような輝きが滲み、輪郭が、淡い光に縁取られていく。
「……っ」
柚葉は息を呑む。
黒蝶は、もはや“黒”ではなかった。
深い群青から、透き通る蒼へ。そして、その中心に――星の白光。
星雫の光蝶。
それは、治すためだけの存在ではない。
穢れを“押し返す”ための、再生の象徴。
「……これが……」
セラフリエルが、思わず声を漏らす。
「星降りの巫女が、聖女へと至る……その瞬間……」
光蝶は、柚葉とルシエルの周囲を巡り、二人を包むように、円を描いた。
そして――
二人の光が、重なった。
星雫の加護と、光の王子の祝福。
異なるはずの神性が、拒絶することなく、溶け合う。
「……行こう」
柚葉が、前を見る。
「この村を……もう一度、“在るべき姿”に」
次の瞬間。
光が、弾けた。
眩い、しかし優しい光が、柚葉とルシエルを中心に広がり、霧を払い、穢れを押し流し、クンナ村全体を、包み込んだ。
屋根の上を、畑のうねを、壊れかけた井戸を、泣き疲れた人々の心を。
星雫の光蝶が、村中を舞う。
それは破壊ではない。そして浄化でもない。
再生の始まり。
朝霧の向こうで、村は、静かに息を吹き返し始めていた。
そして柚葉は、はっきりと感じていた。
――ここからだ。
――ここから、あたしは“作る”。
世界を、もう一度。




