第86話 それでも明日を信じて、星雫と光が重なる朝
朝霧が、クンナ村を包んでいた。
クラウス領の館で一夜を明かした柚葉、ルシエル、ヒジカタ、リリア、セラフリエルは、領主クラウスの案内で村へと向かっていた。
夜明け直後の空気は澄んでいるはずなのに、村に近づくにつれ、柚葉の胸は、少しずつ重くなっていく。
――匂いが、違う。
湿った土の匂い。
焦げた木材。
そして、どこか甘く、嫌な――魔力が腐ったような残り香。
「……これが」
リリアが、小さく息を呑んだ。
村の入口に立った瞬間、全員が言葉を失った。
クンナ村の外れ。虚邪の穢れが最も濃く残る一帯で、柚葉は立ち尽くしていた。
地面は黒ずみ、草は途中で命を諦めたように折れ伏し、空気そのものが、どこか重い。
「……ここまで、か」
呟いたのは、誰だったか。
家屋の壁には、急場しのぎの補修痕。
焼け焦げた木材。
祈りの痕跡だけが残る、簡易的な祭壇。
――生き延びてはいる。だが、代償はあまりにも大きい。
柚葉は、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
(これが……虚邪の、爪痕)
命を奪うだけではない。土地を殺し、明日を削り、希望を“生きづらくする”。
彼女の隣で、ルシエルもまた、静かにその光景を見つめていた。
唇を結び、何も言わない。
――王族として。
――“光”を宿す者として。
その沈黙が、痛みを知っている証のように、柚葉には思えた。
少し離れた位置で、セラフリエルが足を止める。
神殿監察官。星と地脈の歪みを監視し、判断する者。
その銀の瞳が、柚葉を真っ直ぐに捉えた。
「……星降りの巫女」
静かな声。
「星雫の聖女として――貴女は、この地に対して“何ができますか”」
問いは、責めではない。だが、逃げ道もない。
柚葉は、すぐには答えられなかった。
握りしめた拳に、力が入る。
「……解らない」
正直な言葉だった。
「あたしに、なにが出来るかなんて……正直、解らない」
治療はできる。
怪我は癒せる。
しかし――
この土地そのものを蝕む“穢れ”は。
星降りの加護。
黒蝶の治療。
それは、“生きているもの”に作用する力だ。地脈そのものが歪められた場所では、限界がある。
それを、柚葉自身が一番理解していた。
それでも。
「……でも」
もう迷わない。そう心に誓い、顔を上げた。
「できるかどうかは分からない。でも、試したいの」
セラフリエルの視線が、わずかに揺れる。
柚葉は、隣に立つルシエルを見た。言葉にする前の決意を、そのまなざしに込めて。
まっすぐに。
「ルシエル」
「うん?」
彼は、すぐに応えた。それは驚きというより、長く願っていた想いが叶ったときの、熱を帯びた歓喜だった。
「あたしは、あなたと進みたい。だから……力を、貸して」
一瞬、風が止まった。
ルシエルは、言葉を失ったように瞬き――そして、ゆっくりと微笑む。
胸の奥に、熱が灯るのを抑えきれない、といった顔で。
「ボクに出来ることなら……なんでも言って」
感動に、ほんの少し浸った声だった。
柚葉は、少しだけ視線を逸らし。
それから、意を決したように言う。
「……手を、握っていて欲しい」
「え?」
今度こそ、完全に言葉を失うルシエル。
だが、次の瞬間には――何も問わず、そっと手を差し出した。
柚葉の指が、ためらいがちにその手に触れる。
温かい。
人の体温であり、そこに流れる確かな“生”の感触。
(……この土地は、今)
柚葉は、目を閉じる。
(虚邪の穢れに侵されてる)
星降りの加護だけでは、届かない。
黒蝶の癒しでは、追いつかない。
(だったら……)
隣にある、もう一つの光。
生を導く、陽光の系譜。ルシエルの中に宿る、“純度の高すぎる輝き”。
(一緒に、使えたら……?)
星降りの巫女としての加護と光の王子が宿す、陽光の聖女の血を濃く受け継いだ光。
重ね合わせたなら。
“治す”のではなく。“巡らせ直す”ことが、できるかもしれない。
柚葉は、ゆっくりと息を整える。
まだ確証はないし、成功する保証もない。
それでも。
(……やってみたい)
この土地のために、ここで生き続けようとする人たちのために。
そして――
隣で、何も言わずに手を握ってくれている、この人と一緒に。
柚葉は、静かに目を開いた。
星雫の聖女としてではなく。一人の女として。
“何かを始めようとする者”の目で。
――ここからだ。
そう、確かに感じていた。
倒れた柵。
半壊した家屋。
焼け焦げた地面に残る、黒ずんだ痕跡。
虚邪の穢れが、ここを“通過した”のではなく、喰い荒らした跡だった。
柚葉は、無意識に拳を握りしめる。
「……こんな……」
家の前で、呆然と立ち尽くす老人。瓦礫を片付けようとして、何度も手を止める若者。泣き疲れて眠っている子どもを、静かに抱き寄せる母親。
誰もが生きている。だが、誰もが深く傷ついていた。
「ユズハ……」
ルシエルの声が、すぐ隣で落ちる。
彼の表情は、静かだった。しかし、その瞳の奥で、確かな痛みが揺れているのを、柚葉は見逃さなかった。
「……助けられなかった人も、いるんだよね」
柚葉の問いに、クラウスは、重く頷いた。
「オークジェネラルの襲撃は撃退できた。だが……穢れは、確実に残った」
セラフリエルが、地面に残る黒い痕を見つめ、低く告げる。
「これは“傷”です。ですが時間が経っても、自然には消えない穢れ」
柚葉の胸が、ぎゅっと締め付けられた。
――こんな現実が、世界にはある。
――そして、自分たちは、まだ何も終わらせていない。
その時だった。
「――お兄ちゃん!」
弾むような声が、村の奥から響いた。
振り向くと、一人の少年が、全力で駆けてくる。
顔にはまだ、薄く残る包帯。それでも、その表情は、驚くほど明るかった。
「この前は、ありがとう!!」
少年は、ルシエルの前で勢いよく頭を下げた。
「オークにやられそうだったオレとじぃちゃんを助けてくれたでしょ! 盾で受けてくれて……あの剣の技、すっごかった!!」
「……無事でよかった」
ルシエルが、少し照れたように微笑む。
そのやり取りを見て、柚葉の胸の奥で、何かが、ほんの少しだけ、ほどけた。
さらに。
「あっ! あの時のお姉ちゃん!」
今度は、小さな少女が、母親に手を引かれながら近づいてくる。
腕には、もう血のにじんでいないスカーフを巻いている。
「ケガ、ぜんぜん痛くなくなったの! ありがとう!!」
少女は、満面の笑みで、柚葉に言った。
「お姉ちゃん、すっごいね! 魔法のお医者さんみたい!」
「……!」
柚葉は、一瞬、言葉を失った。
自分は、完璧じゃない。それに世界を救えるほど、強くもない。
それでも。
――確かに、この子たちは、生きている。
――自分の手が、届いた場所が、ある。
胸の奥で、何かが、灯った。
「……ううん」
柚葉は、しゃがみ込み、少女と目線を合わせる。
「あたしは、まだまだだよ。でもね」
ぎゅっと、胸の前で手を握りしめる。
「それでも――自分にできることは、ちゃんとやる」
少女が、ぱっと笑った。
「うん!!」
その笑顔を見て、柚葉は、はっきりと思った。
(逃げない)
(見て、感じて、傷ついても――)
(それでも、私にできることを、やるんだ)
朝霧の向こうで、太陽が昇り始めていた。
焼け跡だらけで畑も荒れている。それでもその光は村を、確かに照らしていた。
――この場所にも、まだ“明日”はある。
柚葉は、そう信じて、一歩、前へ踏み出した。




