第85話 出会わないまま惹かれ合う――星が繋いだ光と終焉の予兆
夜が、深まっていた。
クラウス領の館。
客室に用意された寝台に横になりながら、ルシエルは、なぜか眠りに落ちきれずにいた。
疲れていないわけではない。むしろ、ここ数日の移動と緊張で、身体は正直に休息を求めているはずだった。
それでも――
「……?」
胸の奥が、わずかに疼いた。
痛み、と呼ぶほどではない。
息が詰まるほどでもない。
だが、確かに“何かが引っかかった”。
(今の……?)
心臓のあたりに手を当てる。
脈は規則正しく、鼓動に乱れはない。魔力の流れも、静かで安定している。
異常は、どこにもない。
それなのに。
理由のわからない違和感だけが、薄く、しかし確実に残っていた。
――欠けている。
――遠くで、何かが揺れた。
そんな感覚。
ルシエルは、天井を見つめたまま、無意識に呼吸を整える。
(……疲れ、かな)
そう思おうとした、その瞬間。
胸の奥に、もう一度だけ、かすかな痛みが走った。
刃が触れたような鋭さではない。
むしろ――懐かしさに似た、鈍い圧迫。
「……眠れそうにないな」
小さく呟き、ルシエルは身を起こした。
寝台の縁に腰掛け、しばし逡巡したあと、静かに立ち上がる。足音を忍ばせ、客室に備え付けられたバルコニーへと続く扉に手をかけた。
きぃ、と微かな音を立てて、夜気が流れ込む。
冷たい空気が、火照った思考を撫でるように通り抜けた。
バルコニーに出ると、眼下には眠りについた館と、さらにその向こう、静まり返ったクンナ村の灯りが点々と瞬いている。
見上げれば、雲ひとつない夜空。
星々が、やけに近く感じられた。
ルシエルは、手すりに軽く身を預け、夜空を仰ぐ。
(……何だというのだ)
星の配置も、月の位置も、見慣れたものだ。
だが、その中のどこかに、“視線を引く空白”があるような気がしてならない。
胸の奥が、また、微かに疼く。
それは痛みではなく。
呼び声でもなく。
ただ――
(……置き去りにされた何か、か)
答えのない問いを胸に抱えたまま、ルシエルはしばらくの間、夜空を見上げ続けていた。
星々は何も語らず、
それでも確かに、何かが始まりつつある気配だけが、静かに満ちていた。
思い出せない記憶を、思い出しそうになる直前で止められたような。
「……変だな」
呟きは、誰にも届かない。
王都から離れ、護衛はヒジカタとリリアだけ。場を和ませるニャルディアもブレンナもここには居ない。
柚葉は隣室で休んでいるはずだ。
この地で、彼が“何かと繋がる”理由はない。
それでも。
胸の奥の違和感は、ゆっくりと、消えてはいかなかった。
まるで――
遠い夜空の下で、誰かが同じ方向を見上げたかのように。
その頃。
虚邪の穢れに支配された地の、さらに奥。
大神殿地下、夜葬の間。
セレナーデ・モルテフォールは、ひとり、外へと出ていた。
結界の内側。星だけが見える、静かな回廊。
夜空は澄んでいる。
星々は、正確に配置され、揺らぎもない。
だが――
「……」
彼女は、理由もなく足を止めた。
胸の奥。
空虚であるはずの場所が、わずかに“軋んだ”。
(……足りない)
言葉にした瞬間、自分でも驚く。
何が足りないのか、わからない。そもそも、“足りていた”記憶が存在しない。
それなのに。
星空を見上げると、どうしても思ってしまう。
(……一つ、欠けている)
星の配置は、完璧だ。
計算も、儀式も、教えられた通り。
だが、胸の内側だけが、それを否定している。
――ここにあるべき何かが、ない。
セレナーデは、無意識に胸元へ手を伸ばした。
そこには、邪神の穢れを抑えるための刻印がある。
虚無である証。
“終わらせる者”としての印。
なのに。
「……なぜ」
問いは、夜に溶ける。
怒りもない。
悲しみもない。
ただ、説明できない“違和感”だけが、静かに残る。
星々は、黙って瞬いている。
まるで――
遠く離れた場所で、同じ星を見上げる“誰か”の存在を、知っているかのように。
セレナーデは、しばらくそのまま立ち尽くし、やがて踵を返した。
違和感は、消えなかった。
だが、それを追う理由も、まだ与えられていない。
同じ夜。
同じ星空。
生を導く側と、終わりを包む側。
まだ交わらない。
まだ、名前も知らない。
それでも――
胸の奥に残った、消えない小さな疼きだけが、二人が“対”であることを、静かに告げていた。




