第8話 揺らぐ王都と目覚める黒の巫女、運命を呼ぶ朝
王都の影、揺らぐ決断
朝もやがまだ王都を包むころ。
王城の尖塔が金に染まり、鐘の音が石畳を震わせる。
――王都に、“黒の加護”の報が届いたのは、その時だった。
【第一王子・アーシェス・レガリア・ヴァルハイト】
朝日が高窓から差し込み、執務室の机上に薄金の影を落とす。
整然と並ぶ書類、重厚な書架、香のほのかなかおり。王の中枢に最も近いこの空間は、静謐と緊張が常に同居していた。
アーシェスは椅子に深く腰かけ、淡々と報告を聞いていた。
肩で束ねた金髪は光に淡く揺れ、白の軍装に青の刺繍が鋭く映える。整った姿にもかかわらず、彼の金の双眸は常に温度を欠いている。
思考と理性だけが研ぎ澄まされた“王の器”――その象徴だった。
「……黒の加護、か。もはや伝承の中の名だが」
家臣は手にした報告を読みながら、わずかに声を震わせる。
「第三王子殿下の部隊が辺境にて接触したとのこと。光属性と思しき癒し、さらに金属質の召喚体を確認――」
「よい。詳細は神殿経由で上がってくる」
アーシェスは立ち上がり、窓際へ歩く。
高所から眺める王都の街並みを、金の瞳が凍てつくように見下ろす。
そこには王族としての計算、政治の眼、そして静かな企図が宿っていた。
「“黒の巫女”が真に星降る巫女の再来であるなら、王権の象徴になりうるが……第三王子の駒にするには危険だ。“保護”の名で王都へ呼べ。温情の面を被せておけ」
「はっ」
「それから――」
アーシェスの横顔は美しいが、同時に氷より冷たい。
「“灰色の賢者”には伝えろ。いまは動くな。神殿が正式に認めたなら、観察対象から“交渉対象”へ格上げする」
机の横では、金色の紋様をまとう小型の聖獣――イルヴァが尾を揺らしながら、静かに主を見上げている。
風を操るこの聖獣は、アーシェスともう一人にのみ心を許し、カディスとはまた別に王国の“裏の眼”として働いていた。
その時、執務室の扉が急かされ気味に叩かれた。
「第一王子殿下、急報です!」
アーシェスは目だけを向け、続けろと示す。
「辺境ラゼ村にて“虚邪の穢れ”の発生。浄化任務に当たっていた――大地母神の聖女候補ミレフィーオ殿、および護衛騎士二名が、行方不明に……!」
執務室の空気が重く沈んだ。
アーシェスの表情は、変わらない。
変わらない――が、その静けさの奥底で、黒々とした炎が音を立てて揺らめく。
虚邪の穢れ。
土地を喰らい、人を蝕む災厄。
彼にとっては憎悪を超えた、存在そのものへの拒絶だった。
硬く結ばれた指先から、熱がにじむ錯覚すら沸き上がる。
「……また、虚邪か」
氷の声は、かえって危ういほどに静かだった。
「現地の捜索隊を増援しろ。神殿へも同時に介入を要請する。形式は“捜索”だ」
「はっ!」
家臣が退出すると、アーシェスは目を閉じた。その一瞬だけ、王の仮面がわずかにきしむ。
「……ミレフィーオ。まだ逝くなよ」
呟きは誰の耳にも届かないほど微弱だったが、確かな熱を含んでいた。
光を背に受けた横顔は整いすぎていて、人の情の影をほとんど見せない。
けれど――その内側では、灼熱が燃え盛っていた。
(またか……。あいつらは、どれほど奪えば気が済む)
彼は呼吸を整え、ふたたび氷の面をかぶる。
「イルヴァ」
聖獣は金の瞳を細め、床から浮かび上がった。
淡い風が巻き、紋様が輝く。
「――“虚邪の穢れ”の源を探れ。今回は痕跡だけではないはずだ」
家臣が息を呑む。
「殿下、ラゼ村は……?」
「村ごとで構わない。必要なら焼け」
言い切ったのち、アーシェスは小さく眉を寄せた。声は低く、わずかにイルヴァにしか聞こえず、他には誰にも届かぬほどの小ささで続く。
「……それは最終だ。可能な限り、生かして助けろ」
その一言だけは、彼の本心だった。
「そしてミレフィーオを見つけたら……必ず守れ。もう二度と、虚邪に奪わせるわけにはいかん」
イルヴァは鋭く鳴き、金風となって窓外へ消える。
アーシェスは深く息を吐き、再び机に向かう。
冷酷に見える背中は、しかし確かに――誰よりもこの国を、そして無辜の民を守ろうと燃えていた。
【第二王子・ガルディウス・レガリア・ヴァルハイト】
王都西翼、白金の塔に続くバルコニー。
見下ろす先、陽炎ゆらめく訓練場では兵たちが怒号を上げ、砂と汗の匂いが立ちこめていた。
その喧騒を、柵の上に片足を投げ出しながらだらしなく腰を掛け、赤ワインの瓶を弄びつつ眺める男がいる。
第二王子、ガルディウス・レガリア・ヴァルハイト。
紅をはらんだ金髪が陽に輝き、碧の瞳には陽気さと狂気が同居していた。
笑えば爽やかにさえ見えるのに、その奥に渦巻くのは――血の匂いに飢えた獣の焔。
「“黒の加護”、ねぇ。癒して、壊す……どっちもいける? はっ、世には壊すべきもんが山ほどあんだよ。手が足らねぇくらいな」
瓶を光に透かし、液面のゆらぎをうっとりと眺める。
それは戦場で見慣れた血潮の震えと同じ。
ガルディウスは、血の気配すら酒のように嗜む男だった。
「グレイヴが動いた? 勝手に嗅ぎつくのはあいつの性分だしどうでもいい。問題はよ……“光の王子”さんよ」
口元が、戦場を前にした兵士のようにゆっくりと吊り上がる。
「ルシエル。……また神様の悪戯引き当てやがったな、おい」
ここには彼ひとりだけ――そう“見える”。
しかし、ガルディウスの周囲には常に“影”がある。
気配すら感じさせぬ一陣の風。
光の角度がわずかに揺らぎ……それが“合図”だった。
「若……どのように」
声の主は姿を現さない。
だが、白金の柵の上から見下ろすガルディウスには、その存在は当たり前のように聞こえていた。
迅月衆――ガルディウスに絶対忠誠を誓う、忍びの一団。
王族の護衛としては行き過ぎた力で、本人はまったく必要としていないのに、彼らは己の存在意義を求めて“若”の周囲にまとわりつく。
ガルディウスは、そんな影に目も向けず笑う。
「決まってんだろ」
瓶を片手に立ち上がると、風が巨躯に熱をまとわせ、紅金の髪を翻した。
空気そのものが震え、戦場の鼓動めいた振動が足元を走る。
「今は待つ。夢ばっか見てる雛鳥が、親鳥んとこで震えてるのを壊したって、そりゃ“始まり”にもならねぇ」
戦。
それだけが、彼の人生を彩る中心であり、世界の色だった。
「考える前に叩き割れ。拳で語れ。剣で笑え。……それが俺の“王道”だ」
その言葉は戦場の戦鼓。
その背は戦神の影。
理を語る兄アーシェスとは正反対。
だが、獣じみた勘は、軍の誰よりも戦況を読む。
戦場に彼が立てば、味方は吼え、敵は膝を折る。
「“黒髪の巫女”、か。面白ぇ……最高に光ったその瞬間を、この手でぶち壊すのが楽しみで仕方ねぇ」
そして、瓶の首を握り――軽く、手首をひねる。
──パキン。
分厚い硝子が熟した果実を裂くように割れ、血のような赤が滴り落ちる。
しかしガルディウスは気にも留めず、残った側から豪快にあおった。
「っは……いい味だ。瓶ごと噛み砕けるくらいが丁度いい」
空になった瓶を投げ捨てれば、砕け散った欠片が星のように煌めいた。
「壊れる。戻らねぇ。……それが世界の理だ。だからよ、ルシエル」
碧の瞳が、狂気と快楽の焔を宿す。
「俺の前に立つなら――戦場で“燃えられる男”になれ」
戦を渇望する獣の輝きが、バルコニーいっぱいに広がった。




