第81話 削れる契約紋と名を呼ばぬ想い、星が歪む夜
王都の夜は、静かだった。
虚邪の気配が濃くなりつつあるにもかかわらず、街は不気味なほど秩序を保っている。
それは偶然ではない。
獅子王レオハートが、あらゆる兆しを“城壁の外”で食い止めている証でもあった。
その王都を背に、夜の外縁へと散っていく影がある。
五つ。
いや――正確には、七つの意志だ。
彼らは一団として動かない。合流地点も、進路も、時間すら一致していない。
だが、目指す先はただ一つ。
――虚邪の穢れが、根を張る場所。
聖セラフィード大森林。
それは、王都の城壁からわずかな距離にありながら、人の理解と支配が、最も及ばない領域の一つだった。
聖セラフィード大森林――その名が示す通り、聖地と称えられる場所。
森はあまりにも広大で、王国が誇る多彩なスキルを持つ測量師でさえ、その全貌を把握しきれていない。
外縁部は豊穣だった。清らかな水脈、肥えた土壌、薬効を持つ植物。人が手を入れれば、確かに恵みをもたらす大地。
だが、一歩奥へ踏み込めば話は変わる。
そこから先は、古代より続く魔生物たちの領域。人の時代よりもはるか以前から棲みつき、世代を重ね、縄張りを築き、互いに争い、均衡を保ってきた“生きた世界”。
古の巨大な獣。その多くは言葉を理解する魔獣。森そのものと同化した存在。あるいは、名も記されぬまま伝承だけに残る災厄。
そこでは、力こそが秩序であり、弱さは即ち、捕食される理由だった。
恵みと脅威。
聖と魔。
祝福と呪い。
すべてが混在し、折り重なり、群雄割拠の様相を成す――それが、聖セラフィード大森林の全貌である。
そして、その北方に広がる丘陵地帯。
かつては、森と人とがかろうじて共存できていた“境界”だった。
巡礼路があり、祈りの碑が立ち、人々は畏れと敬意をもって、この地に足を踏み入れていた。
――だが今は違う。
いつからか、地図から名を消され、公式記録から抹消され、誰もが意図的に語らぬ場所となった。
聖地であった記憶は、人々の口から、ゆっくりと失われていった。
それでも、土地そのものは、消えてはいない。
森は、そこに在り続ける。
丘は、夜ごと星を受け止める。
そして――人知れず、古代からの“何か”が、再び動き始めていることを知る者は、ほとんどいなかった。
そこに立つ青年の背は、夜気を切り裂くように真っ直ぐだった。
アーシェス・レガリア・ヴァルハイト。
第一王子にして、次代の王と目される男。
冷たい風が外套を揺らす。だが彼の視線は揺れない。
眼下に広がる地形。
星の配置。
魔力の滞留と流れ。
それらすべてを、感情ではなく“盤面”として捉え、静かに思考を進めていた。
(……虚邪は、必ず“理の歪み”を残す)
瘴気の濃淡ではない。魔物の出現頻度でもない。
土地が、本来の役割を忘れている場所。水が巡らず、風が歌わず、星の導きから外れた――“沈黙点”。
そこに、虚邪は巣を作る。
だが。
アーシェスの眉が、ほんのわずかに寄った。
(……違和感が、もう一つ)
盤面の外。
理屈の外。
胸の奥を、微かに引っかくような感覚。アーシェスは、無意識のうちに胸元へ手を伸ばしていた。
――そこに刻まれた、聖獣との契約紋。
脈打つはずの気配が、今夜に限って不自然に“薄い”。
「……イルヴァ」
名を呼ぶ声は低く、しかし鋭かった。
本来、呼応するはずの微かな光が返らない。代わりに伝わってくるのは――削れるような、必死な鼓動。
(己の……命を燃やしているな)
即座に理解した。
聖獣イルヴァは、主の命を守るために存在する。だが、それは“自らを擦り減らしてよい”という意味ではない。
アーシェスの思考に、ほんの一瞬だけ――
盤面には不要なはずの要素が混じった。
(……ミレフィーオ)
名を呼ばずとも、分かる。
イルヴァがそこまで追い詰められる状況など、限られている。守る対象が、命の境に立たされているということだ。
理性が即座に結論を出す。
(……時間は、思っている以上に残されていない)
感情を切り捨て、思考を加速させる。
星を読む。
地脈をなぞる。
沈黙点が、一本の線で結ばれていく。
そして、その線が――一点へと収束した。
丘陵。
地図から消された聖地跡。
聖セラフィード大森林北方。
星が、そこだけ“わずかに歪んでいる”。
まるで、夜空そのものが息を詰めているような感覚。
「……やはり、ここだな」
呟きは、独白に近い。
だがその声音には、いつもよりわずかに熱があった。
(……待っていろ)
それが誰に向けた言葉なのか、本人ですら明確にはしなかった。
囚われた聖女候補か。
命を削る聖獣か。
あるいは――闇の底で冒涜され続ける、もう一人の聖女か。
アーシェスは、外套を翻し、星を背にする。
盤面は、揃った。
あとは――破壊と突撃を担う“駒”を、正しい位置へ投じるだけだ。
(……必ず、辿り着く)
それは王子としての判断であり、主としての責任であり、そして――まだ言葉にしない、個人的な願いだった。
夜空の彼方で、星が一つ、微かに瞬いた。
まるで――「まだ、繋がっている」と告げるように。
背後には、誰もいない。
だが、アーシェス・レガリア・ヴァルハイトは理解していた。
この夜、孤独な探索者は一人も存在しない。
見えぬ糸が張り巡らされ、それぞれの立つ場所は違えど、目的だけは同じ一点へと収束している。




