第80話 月下の模擬戦、剣より雄弁な隣に立つという証明
中庭の端。
石柱の影に、リリアは腕を組んで立っていた。
背筋は伸び、重心は微動だにしない。夜気の冷たさも、剣が走らせる緊張も、すべてを均等に受け止めている。
魔法陣は展開していない。補助も、解析も、不要だった。
(……うん)
視界に映るものを、ただ“そのまま”受け取る。
(やっぱり、いつも通り)
感情は、揺れない。
クラウスは強い。剣の質も、構えも、踏み込みも、一級品。魔剣の扱いは洗練され、刃に流れる魔力も過不足がない。
生き残るために磨かれた剣。殺すためではなく、勝つための剣。
――だからこそ。
(噛み合わない)
それは優劣の問題ではなかった。剣技の巧拙でも、力の差でもない。
構造が、違う。
クラウスが剣を振るうたび、選択肢が一つずつ削ぎ落とされていく。踏み込む前に、そこは“すでに危険”になっている。下がる前に、退路は“読まれている”。
(……最初から)
間合いの作り方が、違う。
ヒジカタは、前に出ていない。だが、下がってもいない。
逃げも、押し込みも、していない。
ただ――そこに“在る”。
その存在そのものが、場を支配している。
(……あの人)
リリアの視線が、自然とヒジカタに定まる。
(本気を出す必要が、ないんだよね)
解析したから知っているけど、腰に差した刀は、本来のものから程遠い。
重心はわずかに甘く、刃の返りも鈍い。聖女さんも言ってたけど完璧とは、とてもいえない代物だ。
それを――
補っている。
力で、ではない。
魔力で、でもない。
――技で。
――経験で。
――そして、決定的に、“判断の速さ”で。
一合ごとに、空気が削られていく。剣が触れるたび、主導権が静かに、確実に奪われる。
クラウスの剣速が上がる。魔剣が応え、淡く光を放つ。
それでも。
ヒジカタの呼吸は、乱れない。足運びも、構えも、何一つ変わらない。
――変える必要が、ない。
次の瞬間。
切っ先が、喉元で止まった。
紙一枚分の距離。
それ以上、近づく意味がないことを、剣そのものが語っていた。
夜が、止まり、風が、遅れて通り過ぎる。
(……終わり)
勝敗は、疑いようがなかった。
力でねじ伏せたわけではない。
技巧で圧倒したわけでもない。
ただ、最初から最後まで――相手の“勝てる可能性”が、存在しなかった。
リリアは、腕を組んだまま、小さく息を吐く。
(……納得)
だからこそ、怖い。
この人は、自分が“どれほど強いか”を、誇らない。当たり前のこととして、そう在る。
それがどれほど異常かを、理解していない。
月明かりの下。
剣戟の余韻だけが、静かに中庭に残っていた。
リリアは、肩の力を抜いた。
(……はいはい)
(確認、終了)
予想通りの想定内。
クラウスが剣を下ろしたのを見て、リリアは小さく息を吐く。勝敗そのものに、感慨はない。結果は最初から見えていた。
――その時だった。
視線の端で、別の“気配”が、微かに揺れた。
(……?)
中庭へと続く回廊。石の影から、白い影がにじむように現れる。
神殿服。
月明かりを受けて、金糸の刺繍が淡く光る。
(……セラフリエル)
どうやら、祈りの途中で外に出てきたらしい。
あるいは――
(……見ちゃった、か)
セラフリエルは、そこで立ち止まっていた。
剣戟の中心ではない。勝敗の行方でもない。
その視線は――ただ一人。
ヒジカタの背中に、吸い寄せられている。
刀を収める、その所作。余分な動きの一切ない、完成された動線。激しいやり取りの直後だというのに、呼吸は微塵も乱れていない。
戦いが終わっても、何も変わらない。
まるで最初から、そうであることが前提だったかのように。
そして。
ヒジカタが、ふと振り返る。
「……リリア」
名を呼んだだけ。確認でも、合図でもない。
“そこにいると、最初から知っている”声。
その瞬間。
セラフリエルの肩が、ぴくりと跳ねた。
(……あ)
(……これは)
リリアは、即座に理解する。
これは、剣技を見ての動揺じゃない。強さを見ての畏怖でもない。
――“信頼の形”を、見てしまった者の反応だ。
ヒジカタの声には、期待も不安もない。応えが返ると、疑っていない響き。
リリアは、小さく手を振った。
「終わった?」
「問題なしでござる」
それだけのやり取り。
戦果の報告でもない。
成果の共有でもない。
――ただの、日常。
だが。
セラフリエルは、息をするのも忘れたように、その光景を見つめていた。
信頼。
役割。
そして――隣に立つ者としての、確かな位置。リリアは、その横顔を一瞥し、内心で小さく息を吐く。
(……そっか)
(これ、見られたんだ)
剣を振るう覚悟ではない。前に立って守られる覚悟でもない。
“当たり前に呼ばれる側”として、そこにいる覚悟。
それを、今まで以上にはっきりと、突きつけられた気がした。
(……更新、だね)
逃げない。
誇示もしない。
ただ、隣に立つ。その立ち位置を、誰に見られても揺るがせない。
リリアは、背筋を伸ばす。
視線の先で、ヒジカタがこちらを見ている。変わらない距離。変わらない目。
(大丈夫)
(私は――ここにいる)
それだけで、十分だと。今は、そう思えた。
夜風が、中庭を静かに抜けていった。
そのやり取りを、セラフリエルは、息をするのも忘れて見ていた。
(……なに、今の……)
剣士と研究者。
お互いに護衛という立場。
そういう“役割”の会話ではない。
長い時間を前提にした、疑いのない距離感。
セラフリエルは、無意識に胸元を押さえた。
(……あの二人)
(戦ってる姿より……)
(今の方が……)
――刺さる。
理由が、わからない。神学的説明も、つかない。
ただ。
(……ずるい)
そう、思ってしまった。
リリアは、セラフリエルの存在に気づいたふりをして、軽く会釈する。
「こんばんは」
「……っ」
声をかけられ、セラフリエルは我に返った。
「こ、こんばんは……」
明らかに、様子がおかしい。
視線が定まらない。さっきまでの監察官の顔が、どこにもない。
(……ああ)
(なんだか、刺さっちゃったんだね。この人……監察官としては、優秀なんだろうけど)
リリアは、内心で肩をすくめた。
説明する気はない。誤解を解く気もない。
ただ一つ、確かなのは。
(……これ)
(神殿監察官的には……)
(相当、厄介だろうな)
ヒジカタは、何も気づかず、刀を拭いながら言う。
「冷えるでござる。戻るか」
「ん」
並んで歩き出す二人。
その背中を、セラフリエルは、しばらく見送っていた。
胸の奥に残る、言葉にできない熱と、理性が追いつかない感情を抱えたまま。
(……神よ)
(これは……)
(本当に、試練では……?)
月明かりの下。
神殿監察官は、また一つ。
“見なければよかったもの”と、“見てしまったから戻れないもの”を、同時に抱えてしまった。
ハーゼン領の夜は、静かだ。
だが、その静けさの中で。
誰にも気づかれぬまま、確実に、心の均衡が一つ、崩れていた。




