第78話 救済か、裁定か、クンナ村へ向かう前夜の食卓
夜。
館の食堂に並んだのは、簡素だが温かみのある料理だった。
焼き過ぎないよう気を配られたパン。
香草で臭みを抑えた煮込み。
季節外れの野菜は少なく、代わりに根菜が多い。
豪奢ではない。むしろ、慎ましい。
だが――その一皿一皿が、この領地の“今”を、雄弁に物語っていた。
(……ちゃんと、美味しい)
柚葉はそう感じながらも、無意識に量を確かめてしまう。無駄はない。飾りもない。けれど、手抜きでもない。
――余裕がない中で、できる限りのもてなし。
それが、この食卓だった。
そして、もう一つ。
この場に、神殿監察官セラフリエル・グラナートの姿がないこともまた、同じ理由からだった。
本来であれば、神殿の代表として同席するのが礼儀だ。
だが彼女は、食事の席が整う直前、静かにこう告げていた。
「申し訳ありません。今宵は、神に祈りを捧げる務めがありまして」
虚邪に汚された地へ踏み込む前夜。
神殿監察官として、土地と魂の安寧を願う祈祷を欠かすわけにはいかない。
それは、形式でも、建前でもない。
――少なくとも、表向きは。
実際のところ。
セラフリエルは、自室の祭壇の前で膝をつきながら、ひたすら深呼吸を繰り返していた。
(……今は……無理です)
フリル。
レース。
気だるげな瞳。
そして「許嫁」という、あまりにも強烈な単語。
(あの方と……同じ空間で……冷静な食事……?)
(神よ、それは試練が過ぎます……)
祈りの言葉を口にしながらも、脳裏をよぎるのは、つい先ほど見た“あり得ない可愛さ”。
視線が合えば、また動揺する。
動揺すれば、監察官としての威厳が揺らぐ。
だからこそ。
彼女は、祈りを理由に席を外した。
それは逃避ではなく、職務のための選択――そう、自分に言い聞かせながら。
一方、食堂では。
神殿監察官が不在であることを、誰も不自然とは思わなかった。
祈りの時間を尊重するのもまた、この領地なりの“できる限りのもてなし”だったからだ。
柚葉は、ふと空いている席に視線を向け、心の中で小さく頷く。
(……そうだよね)
(今は、いない方が……平和かも)
暖かな料理の湯気が立ち上る中で。
それぞれが、それぞれの理由を胸に抱えたまま。
静かな食事の時間は、ゆっくりと流れていった。
食事が一段落した頃、クラウスが静かに口を開く。
「……正直に言おう」
視線を伏せたまま、淡々と。
「表向き、ハーゼン領は落ち着いている。だが、クンナ村周辺は別だ」
食堂の空気が、わずかに引き締まる。
「オークジェネラルの襲撃で、村の家屋の多くは焼け落ちた。今も、半数以上が仮設の天幕暮らしだ」
柚葉の指が、膝の上で強く握られる。
「畑も荒らされた。虚邪の穢れが残り、土が死にかけている。芽は出ても、育たない」
リリアが、無言で頷いた。その表情は、研究者のそれだ。
「家畜も同様だ。痩せ細り、夜中に怯えて柵を壊す。森に何もないはずなのに、なにかが居た跡が見つかることもある」
クラウスは、一度言葉を切った。
「辛うじて、王都と神殿からの支援で生き延びている。だが……他の領地も、決して余裕はない」
沈黙。
支援物資が十分でない理由が、はっきりと伝わってくる。
この国全体が、削り合いながら持ちこたえている。
「……魔物か?」
ヒジカタが、低く問いかけた。
「断定できん」
クラウスは首を振る。
「魔物にしては、行動が“静かすぎる”」
その一言に、リリアの指が、ぴくりと動いた。
「虚邪絡みの“残滓”か……」
少し間を置いて、
「あるいは、意志を持った何か」
「……人に近いもの、か」
ルシエルが静かに続きを受ける。
柚葉は、無意識に胸元へ手を当てた。
――脳裏に蘇る、あの光景。
クンナ村を襲った、オークジェネラル。
普通のオークの倍はある巨体。だが、それは筋肉による成長ではなかった。
異様な“膨張”。内側から押し広げられたように歪んだ身体。
皮膚は灰緑から、黒ずんだ紫へと変色し、裂け目のようなひびからは、黒い霧が絶え間なく滲み出ていた。
煙ではない。呪詛が、形を持ちかけているようなもの。
炎の光を吸い、空間を汚し、触れた空気さえ腐らせる、不快な黒。
手にしていた棍棒は、かつては鉄だったはずだ。だが、すでに金属の質感は失われていた。
どろりと歪んだ黒鉄。
瘴気を滴らせ、打ち付けられた大地を焦がすように侵す。
(……あれは)
(“魔物”って呼んでいいものじゃ、なかった)
食堂の灯りは、暖かい。
だが、話が進むほど、影は確実に濃くなっていく。
それでも。
この場にいる誰一人、目を逸らそうとはしなかった。
ルシエルは静かに背筋を伸ばし、ヒジカタは黙したまま覚悟を固め、リリアは既に思考を次の段階へ進めている。
そして、柚葉も。
(……明日)
(わたしたちは、そこへ行く)
救えるのか。
祓えるのか。
それとも、裁くことになるのか。
それは、まだわからない。
だが――逃げる理由だけは、どこにもなかった。
食事が終わり、食堂の空気が少しだけ緩み始めた頃。
誰ともなく、次の一日を思い描いていた。
日が昇れば。
彼らは、虚邪に穢された村――クンナ村へ向かう。
それぞれの理由と、それぞれの覚悟を胸に。




