第76話 許嫁という事実、神殿監察官が立ち止まった夜
結論から言えば――その日のうちに、クンナ村へ踏み込むのは見送られた。
リリアとヒジカタという、実力も事情も抱えた二人が合流したことで、想定以上に足取りは慎重になった。
街道の異変を精査しながらの移動。
そして、日没後に“穢れた村”へ入ることの危険性。
ルシエルは、早い段階で判断を下した。
「……今夜は、クラウス卿の領地で一泊しよう」
名が挙がった瞬間、柚葉は内心で納得していた。
クンナ村に最も近く、過去にオークジェネラルの被害を真正面から受け、それでもなお、領地を立て直し続けている男。
クラウス・フォン・ハーゼン。
今回の調査に、彼が“見届け人”だけではなく“協力者”として選ばれた理由でもあった。
日が完全に落ちる頃、一行はハーゼン領の館へと迎え入れられた。
無駄な装飾はない。 だが、手入れの行き届いた石造りの屋敷は、領主の性格をそのまま映しているようだった。
「王都からここまでを一日での歩行、さぞ疲れたでしょう。明日からのクンナ村の調査のためにも本日はごゆるりとお過ごしください」
クラウスは簡潔にそう言い、すぐに使用人へ指示を飛ばす。
「部屋を用意しろ。客人はいずれも王国の重鎮と神殿関係者の方だ。粗相のないよう各自に多めの侍従を付けるように」
クラウスの指示が終わると、執事長が一歩前に出て、深く一礼した。
「畏まりました。では、お部屋割りでございますが――当館は男女別に棟を分けております」
その一言で、空気が、ほんのりとざわつく。
理由は一つ。
リリアだった。
フリルのついた服。柔らかな色合い。どう見ても“女性用の棟”に案内される見た目。
――だが、中身は。
「……個室がいい」
リリアは、相変わらずの気怠げな調子で告げた。
「男女別とか、そういうの、効率悪いから」
「効率の問題ではござらん!」
即座にヒジカタが噛みつく。
「貴族の館には貴族の作法が――」
その時。
「それでしたら」
静かに、しかし迷いなく声が入った。
セラフリエルだった。
「私が、リリア殿と同室にいたします」
一瞬。
時間が、止まったような沈黙。
「…………」
柚葉が目を瞬かせる。
ルシエルも、さすがに一拍遅れた。
「え?」
使用人たちが一斉に固まる中、セラフリエルはにこやかに続ける。
「神殿としても、特別な聖女案件に関わる方を近くで見守れるのは合理的ですし」
ちら、と。
リリアの服装へ視線を滑らせる。
「それに――そのお召し物、とても興味深く」
「……?」
リリアが、首を傾げる。
「布の重なり方、配色、装飾の意味合い……」
セラフリエルは、少し早口になりかけて、慌てて咳払いをした。
「い、いえ。その……研究的観点で、です」
その瞬間。
「却下でござる!!」
鋭い声が、空気を切り裂いた。
ヒジカタである。
侍装束に身を包み、背筋を伸ばして立つその姿は、凛として美しい。
無駄のない所作、張りのある声――どこからどう見ても……言語と衣装に関しては、あれだが“気風のいい女性剣士”だった。
「リリアは――拙者の、許嫁でござる!!」
しん、と。
今度こそ、完全な静寂が落ちた。
「………………はぁ?」
セラフリエルの口から、完全に素の声が零れる。
一拍遅れて、目を見開いた。
「え、ちょっと待って」
一歩、詰め寄る。困惑と動揺を隠す気もなく、リリアを指差した。
「その……この、可愛らしい装いで……?」
フリル。レース。華奢な体躯。
どう見ても、繊細で愛らしい“少女”そのものだ。
「……貴族令嬢、ですよね?」
疑問というより、確認だった。
リリアは、相変わらず気だるげに瞬きをしてから、淡々と答える。
「んー……まあ」
少し間を置いて、
「そう見えるなら、それでいい」
「え?」
セラフリエルの思考が、一瞬止まる。
「い、いえ、そういう曖昧な話じゃなくて……!」
視線を、今度はヒジカタへ移す。
侍装束の下でも隠しきれない女性的なライン。気高く、堂々としていて、それでいてどこか優美。
(……え)
(女性同士……?)
頭の中で、理解が追いつかない。
「許嫁!? この二人が!?」
声が、思わず裏返る。
「ど、どう見ても……」
「どう見ても、でござるか」
ヒジカタは腕を組み、胸を張る。その所作は誇らしげで、少しも後ろめたさがない。
「某とリリアは、正式な縁談を結んだ間柄」
きっぱりと、揺るぎない声音。
「何か問題でも?」
「問題しかないように見えるんですけど!?」
セラフリエルの理性が、音を立てて崩れかけていた。
「だって……え? え?」
視線が、フリルの少女と、侍装束の女性を、何度も往復する。
「え、待って……」
小声で、ほとんど独り言のように。
「王国って……そんなに先進的でしたっけ……?」
柚葉は、その様子を見て、思わず口元を押さえた。
(……うん)
(完全に、そう見えてる……)
――この場にいる誰一人として、“性別の真実”に辿り着いていない。
それが、今この瞬間の、何よりも平和で、何よりも危うい事実だった。
場の混乱をよそに。
「……ま、そういうことだ」
クラウスが、淡々と一言だけ落とした。
説明する気配は、まったくない。
それ以上触れれば面倒が増えると、完全に理解した声だった。
「旦那さま」
即座に、執事長が食いつく。
年季の入った執事として、曖昧な処理を最も嫌う男だ。
「“そういうこと”とは、どういうことでございましょうか」
「察してくれ」
「察せません」
間髪入れず、即答。
そのやり取りに、柚葉はつい、口元を押さえた。
(……なにこれ……)
(すごく大事な話のはずなのに……)
隣では、ヒジカタが腕を組んだまま微動だにせず、リリアは「やっぱりめんどくさい……」と小さく呟いている。
完全に、当事者二人だけが通常運転だった。
ルシエルは、こめかみを軽く押さえ、一度だけ深く息を吐く。
王子としてではなく、この場を終わらせる役目を引き受ける者として。
「……とりあえず」
穏やかな声に、全員の視線が集まる。
「今日は休もう。話は、明日でも遅くない」
それ以上、誰も反論しなかった。
反論できるほど、状況を整理できている者がいなかったからだ。
こうして。
部屋割り一つで、神殿監察官を混乱させ、執事長を困惑させ、領主を諦めさせ、王子に新たな頭痛の種を増やし。
それでも当の本人――リリアは、
「……静かな部屋なら、どこでもいい」
と、気だるげに呟くだけだった。
ハーゼン領で過ごす夜は、ほんのりと賑やかで、そして、どこか奇妙な余韻を残したまま、更けていった。




