第7話 ただの黒髪乙女? いいえ、三勢力が狙う“奇跡の鍵”みたいです
戦火の跡に残ったのは、癒えた傷と、ひとつの約束。
燃え尽きた村に、白い霧が流れる。
淡く金の陽光が差し込み、風が焦げ跡の上を優しくなでていく。
黒髪の少女は、まだ眠っていた。
そのそばで、ルシエルは静かに見守っている。
彼の表情には、安堵と同時に、言葉にならぬ覚悟が宿っていた。
だが、その穏やかさと決意の裏で――すでに、別の者たちが“その光”の発現を感じ取っていた。
【王都の影――《灰色の裏契約者》】
王都・高塔の最上部。
夜の名残が薄く漂う空を、冷たい風が裂くように流れる。
その風の中――濃い灰色のチェスターコートをまとった男が、欄干に立っていた。
月を背にしたその姿は、まるで世界の輪郭から切り離された影そのもの。
灰色の髪、灰色の瞳。
その双眸には生気が薄く、ただ“測定”だけが宿っている。
まるで世界のあらゆる存在を、価値と意味に分解しようとするような、静謐で冷たい光。
――カディス・ヴェルド。
聖王国に仕える“賢者”。
だがそれは表向きの顔であり、本質はもっと異質だ。
かつて帝国魔導院。師と兄弟子とともに世界法則の頂を競い、言語化すら困難な“理の書”を追った。
だが彼と兄弟子は境界を越えた。
世界の理を“再定義”する禁呪。
《法典詠唱〈コーデクス・アーキタイプ〉》
存在の根幹を書き換える理論型禁呪に踏み込み、神域への冒涜とされ激昂した師により破門。
兄弟子は更なる魔導の真髄を求め帝国の辺境へ冒険者となって旅立ち、彼は敵国であった聖王国へ――ただ“理”を追うためだけに訪れる。
「……皮肉だな。かつて帝国によって滅ぶべきと学んだ国で、今は研究が最も捗るとは」
呟きは淡々としているが、声の底でわずかに揺れたものがある。
喜びでも憤りでもない。
“理に近づく予感”――それだけが、彼にとっての熱だ。
アーシェス第一王子が提供する潤沢な資金と研究資料。その見返りとして結んだ裏契約。
王都の暗部へ、彼の魔術と観測を提供すること。
表の顔は賢者。
実態は――第一王子の影を担う裏契約者。
カディスは掌の上の魔晶石を、細い指で静かに転がした。
魔晶石の中。黒髪の少女が放った“光”が再生される。
光は黒ではなく、金に近い輝き。
世界の常識では語れない、破壊と癒しをあわせ持つ特異な加護。
「……黒の加護。いや、これは“黒”の体系に分類してよいのか……?」
呟きは淡々としている。
だが、瞳の奥――ほんのひとかけらだけ、熱が宿る。
静かで、理性的で、だからこそ深く歪んだ熱。
「再現できれば、かの《アストラ・コード》に迫る……いや、越える可能性すらある」
興奮ではない。
歓喜でもない。
ただ、“理への接近”という事実だけが彼を満たしていた。
虚邪の穢れによる魔物。
少女の光。
未知の相関。
「……ふむ。これは……解析する価値がある」
静かな声。
だが、冷たすぎるほど純粋な狂気の色がそこには、ある。
灰色の瞳が、遠く聖都の塔へ向けられた。
「アーシェス殿下。あなたの望む“鍵”は、確かにここに存在するでしょう」
淡く微笑む。
感情の欠片もない、無色の笑み。
「しかし……その鍵が何を開くかは、もはや神すら規定できない」
風が吹き、灰色のコートがひるがえる。
その姿は、月の光に溶け――欄干から“影”として消えた。
ただ冷たい風だけが、彼の残り香を運んでゆく。
灰色の残光をかすかに散らし――王都の闇へと沈んだ。
【荒野の月下――《遊戯の影刃士》】
同じ夜。
王都の外れ、荒野にぽつんと残された崩れた塔。欠けた塔頂に月光が降りそそぎ、白い光が廃石を淡く照らしていた。
その上で――男が片膝を立てて腰を下ろし、気だるげに夜風に髪を揺らしている。
グレイヴ・ナイトウォーカー。
薄茶の無造作な髪、焼けた肌、金のピアス。
軽さを身にまとったような笑顔は、街にいたら“遊び人”と思われる類のもの。
しかし実態は違う。
第二王子ガルディウスの迅月衆――その中でも“影刃士”の名を許された、特殊な異能使い。
だが、変わり者だらけの迅月衆の中でも彼は異端な存在だった。
忠誠心は薄く、ガルディウスを“雇い主”程度にしか思っていない。
それゆえ、ガルディウス至上主義の迅月衆からは蛇蝎のごとく嫌われ、単独行動を好む遊撃の狂犬。
「……へぇ。こりゃ本物だな」
指先から投じられた魔具が空中に光を結び、投影窓を形成する。
そこに映るのは――
黒髪の少女が放った異質の“聖光”。
そして、彼女が呼び出した金鉄めいた聖獣の突撃。さらにそこにいた全員を一息で癒やす、奇跡の回復術。
「ははっ。なんだよこれ。破壊も癒しも規格外とか、バグかよぉ……可愛げのある小娘の皮かぶった厄災だねぇ」
笑う声は軽いが、瞳だけは鋭く細められる。飢えた獣の色が、月光の下でゆらめく。
「旦那の奴……こういうの、絶対好きだわ。氷の王子サマや神殿が動く前に“現物”を拝みに行くかね。オモチャは早い者勝ちだ」
立ち上がった瞬間――塔の影が、グレイヴの足元でゆっくりと“形”を変えた。
人影のような、獣影のような、だがどちらでもない“不定形の黒”。
その存在が大気を揺らし、冷たく禍々しい気配が、月下の塔を満たしていく。
迅月衆の中でも、極めた者のみが扱える奥義。
《断罪乃影刃〈ジャッジメント・ファング〉》
――影を媒介に、形なき“従影”を操る暗殺術。
その片鱗が、ほんの一瞬だけ覗いた。
グレイヴは振り返りもせず、その影を踏みしだきながら笑った。
「動くぞ、“影ども”。標的は黒髪の娘……ただし“丁寧に”扱えよ。こんな始まってもいねぇとこで壊したって意味ねぇからな」
金のピアスが月光を弾き、きらりと光る。
その笑みは――冷酷と遊戯、興味と死の境界線をひらりと飛び越えた、影に生きる狂人のものだった。
【神殿の夜――《夢喰いの報せ》】
王都の中心、聖セラフィード大神殿。
深い夜の静寂に、月光が天蓋を貫き、ステンドグラスの聖像を透かして七色の光を石床へと落とす。
その光の中心に、大聖女リディアーヌ・ルミナリアは佇んでいた。
白銀の精糸のような髪が肩から流れ、わずかな風もないのに揺れている。
二十代の若さを思わせる姿だが、その瞳に宿るのは何世代もの祈りを積み重ねた者だけが得る、永遠の静謐。
雪のように白い祭服は闇を拒む結界のようで、冷たいアイスブルーの瞳には、一切の迷いも情動も映らない。
その唇は、神への言葉のみを許されているかのように端正だった。
その彼女の肩に、透き通る翅をした蝶がそっと降り立つ。
誓約霊――“夢喰い蝶”ミルティナ。
『……報告、いたします……』
鈴の音にも似た念話が、彼女の精神へと滑らかに落ちる。
『東の辺境にて、黒の光が発現。……癒しと破壊、両性質を併せ持つ力です』
祈りを捧げていた指先が、わずかに空気を震わせるほど微細に止まった。
「――黒の加護。……星降りの巫女、再び暁へ歩み出すというのですか」
静かでありながら、その声は月光のように鋭い。
決して揺らがないはずの彼女の心に、かすかな探求と緊張が走った。
リディアーヌは壇の上の聖典に手を置き、再びまぶたを閉じる。
「セラフィードよ……。あなたはまた、人に試練を下すのですね」
祈りの光が淡く広がり、祭服の白が星屑のように輝いた。
ミルティナの翅がそっと脈打つ。
「命じます、ミルティナ――影視を発動し、その娘の歩みを追いなさい。彼女が“器”にふさわしき者か……神の御心に照らし、見極めてくるのです」
『……御心のままに、わが主』
蝶は柔らかく光を放ち、粒子となって夜空へ、月と星のあいだを飛び越え、夢の狭間へと吸い込まれるように消えていく。
残された大聖女はひとり、静かに祈りを続けた。
その姿は、夜を見守る月の化身のように、ただ清く、ただ神秘的だった。
――こうして、静かな始まりの刻の裏で。
ひとりの少女の“奇跡”をめぐり、三つの影が動き出した。
灰色の契約と、月下の野獣、そして聖なる審判。
それぞれの意志が交差する先に、どんな運命が待つのか。
そして、そのすべての中心に、黒髪の少女と陽光の王子の“約束”があった。




