第74話 冷静な監察官と、感覚が目覚め始めた星雫の聖女
――そして。
王都から枝分かれして、クンナ村へと続く街道に足を踏み入れた、その瞬間だった。
空気が、微かに張り詰めた。
瘴気ではない。魔力の乱れでもない。
だが、はっきりとわかる――“見られている”という感覚。
柚葉だけが、遅れて異変に気づく。
(……なに?)
(この感じ……村に入る前から、もう試されてる……?)
――そう思った瞬間。
柚葉は、ほんのわずかに、戸惑った。
(……あれ?)
(あたし、なんでそんなこと、わかるんだろう)
誰かに教えられたわけでもない。
確かな根拠があるわけでもない。
ただ、空気の“向き”がわかる。視線の“質”が、読み取れてしまう。
まるで、見られている、ではなく――測られているとでも言うような感覚。
(……これ)
一瞬、思考が自分自身に追いつく。
(リリアの魔法……?)
身体が軽くなり、世界の情報が整理されて流れ込んでくる、あの感覚。
でも――それだけじゃない。
胸の奥。
星雫と呼ばれた場所が、微かに熱を帯びる。
(それとも……)
(“星雫の聖女”って認められて……)
(なにか、変わった……?)
答えは出ない。
けれど、ひとつだけ確かなことがあった。
この感覚は、怖くない。
むしろ――「気づけてよかった」と、どこかで思っている自分がいる。
考えが、早い。なのに、混乱しない。
判断が、自然に浮かぶ。なのに、無理をしていない。
(……あ)
(これ……)
(“守る側”の感覚だ)
柚葉がそこまで思い至った、その瞬間。
街道脇、岩陰と低木の間から――二つの人影が、ゆっくりと姿を現した。
まず、目を引いたのは白。
柔らかな乳白色を基調とした神殿服。
布地は上質だが、過剰な装飾はなく、線は驚くほど洗練されている。
歩みに合わせて、裾の金糸刺繍がかすかに光を返した。
年齢は二十代後半ほど。
淡い金髪を後ろで一つに束ね、整った顔立ちは静かな威厳を帯びている。
その佇まいは、戦士でも官僚でもない――祈りと裁定の場に立つ者のそれだった。
彼女は一歩前に進み、胸元に手を添えて、ゆっくりと一礼する。
「神殿より参上いたしました」
声は落ち着いていて、澄んでいる。
だが柔らかさの奥に、揺るぎない芯があった。
「神殿監察官――テンプル・オブザーバー」
一拍置いて、名を告げる。
「セラフリエル・グラナートと申します」
その名が、静かに空気へ溶けていく。
柚葉は、無意識に背筋を伸ばしていた。
(……この人)
(優しそうなのに、目が……)
セラフリエルの瞳は穏やかだ。だが同時に、何一つ見逃さない透明さを宿している。
祈る者の慈しみと、裁く者の冷静さ。
相反する二つを、自然に同居させた視線だった。
彼女は、ほんの一瞬だけ周囲を見渡す。
ヒジカタの立ち位置。リリアの重心。ルシエルの呼吸。
そして――最後に、柚葉で視線が止まった。
その間は、ほんの一拍。だが柚葉には、なぜか長く感じられた。
「……失礼」
セラフリエルは、声の調子をわずかに和らげる。
「今、この場に足を踏み入れた瞬間」
穏やかな問いかけ。
「何か――感じませんでしたか?」
柚葉の胸が、ひくりと跳ねる。
(……やっぱり)
気のせいじゃなかった。あの“測られている”感覚。
「……えっと……」
言葉を選ぼうとした、その時。
セラフリエルの視線が、ふいに横へ逸れた。
リリアの方だ。
フリルの裾。揺れるレース。量産型地雷の完成度。
ほんの、一瞬。
本当に刹那のことだった。
セラフリエルの目が――きらりと、わずかに輝いた。
理性の仮面の奥で、何かが反応したような、そんな微細な変化。
(……?)
柚葉は、思わず瞬きをする。
だが次の瞬間には、その視線は何事もなかったかのように戻っていた。
「……いえ」
セラフリエルは軽く咳払いをして、表情を整える。
「今は、答えなくても構いません」
微笑みは、あくまで公的で、柔らかい。
だが、柚葉の視界の端で。
リリアのフリルが揺れるたび、セラフリエルの視線が、ほんの一瞬だけ、そちらに吸い寄せられていることに――
なぜか、気づいてしまった。
(……あれ?)
(この人……)
ヒジカタは気づいていない。ルシエルも、今は話の流れを追っている。
だが、柚葉だけが感じる。
監察官としての冷静さの奥に、別の温度が、確かに潜んでいることを。
「では、改めまして」
セラフリエルは姿勢を正し、場を引き締める。
「私は本日より、神殿の立場からこの調査と行動の“見届け役”を務めます」
その声音は、再び澄み切っていた。
――けれど。
柚葉の胸には、小さな疑問が残る。
(……今の、気のせいじゃないよね?)
優雅で、理知的で、少し近寄りがたい監察官。
だが、その内側に、思いがけず“人間くさい何か”が潜んでいる気配を――柚葉は、確かに感じ取っていた。
ルシエルが、王子として一歩前に出た。
「これはご丁寧に。神殿直轄の監察官自らとは、正直、少々意外です」
セラフリエルは、わずかに微笑む。
だが、それは社交辞令ではなく、状況を受け入れた者の微笑だった。
「今回の件は、“虚邪”が深く関与しております」
視線が、自然とクンナ村の方角へ向く。
「神殿としては、その穢れが正しく祓われるのか……それが本当に可能なのか。聖女の力が、何にどう使われたのか、それを見届ける責務があります」
言葉は丁寧。
だが、そこに妥協はない。
――神殿は、過程より“結果”を見る。
その重みを、柚葉は肌で感じた。




