第73話 歩くほどに世界が澄み、聖女の感覚が目を覚ます道行き
王城を発ってから、クンナ村へ向かう移動手段は――徒歩だった。
それは単なる移動の選択ではない。
王国の現状。
街道の荒廃度。
虚邪の穢れが、どこまで浸食しているか。
馬車や転移魔法では拾えない“情報”を、足で確かめるための判断だった。
ルシエルは、その決定を当然のように受け入れている。
王子としてではなく、王国を背負う者として。
「……街道自体は、まだ生きているね」
道の石畳に刻まれた擦れ跡。最近まで人が通っていた名残。だが、王都から離れるほど、その気配は確実に薄れていく。
柚葉は、内心で覚悟していた。
(……結構、歩くよね……)
体力に自信があるわけではない。異世界に来てから、徒歩によるまともな長距離移動は初めてだ。
――だが。
「……あー……ちょっと、面倒……」
隣で、リリアが気だるげに呟き、立ち止まると、指先で軽く空をなぞる。
「転移は禁止だし……でも、この距離を普通に歩くのも……」
小さくため息。
「……仕方ないか」
その瞬間。空気が、ふっと変わった。
リリアの足元から、淡い魔法陣が広がる。幾何学的で、無駄のない構成。装飾性よりも、理論を優先した“研究者の陣”。
「身体機能強化――持続型」
ぼそりと呟く。そこに詠唱は、ほとんどないに等しい。
次の瞬間。
柚葉は、自分の身体が軽くなったのを感じた。
(……え?)
足が、勝手に前へ出るのに、息が乱れない。そして心拍も、上がらない。歩いているはずなのに、感覚は“早歩き”どころではない。
景色が、流れていく。
それなのに、一つひとつの輪郭が曖昧になることはなかった。
道の石畳の欠け具合。踏み荒らされた土の湿り。街道脇の草が不自然に倒れている方向。
視界に入った情報が、ただ通り過ぎるのではなく――必要なものだけが、選別されるように、鮮明なまま脳に届く。
考えようとしなくても、『ここは人が通っている』『ここは、最近まで何か重いものが引きずられた』
そんな判断が、自然に浮かぶ。
(……なに、これ)
(身体だけじゃなくて……)
(思考も、一緒に速くなってる……?)
速さに置いていかれる感覚はない。むしろ、世界の方が、こちらに歩調を合わせているみたいだった。
「……なに、これ……!」
思わず、声が漏れた。
足が前へ出るたび、距離が縮む。速い――はずなのに、焦りがない。息も、思考も、置いていかれない。
ヒジカタも、目を細めた。
「……ほう」
一歩踏み出すだけで、通常なら二歩分の間合いが詰まる。重装の侍装束にもかかわらず、身体はまるで羽のように軽い。
いや――軽い、だけではない。
柚葉は気づく。
(速いのに……ちゃんと考えられてる)
(次に足を出す場所も、バランスも、全部……)
身体が先に動き、それを“正しい”と判断する思考が、ほぼ同時に追いついてくる。
考えてから動くのではなく、動きながら、最適解が更新され続けている感覚。
「脚力、反応速度、持久力……」
リリアは歩きながら、淡々と口にする。
「全部、底上げしてる」
指先で、見えない数式をなぞるような仕草。
「魔力消費は最小限。疲労感と筋負荷だけ、後回しにしてる」
説明は簡潔。だが、その内容は明らかに高度だった。
柚葉は、半ば呆然としながら、自分の手を握ったり、開いたりする。
指先まで、意識が届く。血の巡り。関節の角度。力の入り具合。
(すご……)
(これ……走ってないのに……)
(世界の方が、遅くなってるみたい……!)
「……魔法って、こんなことまでできるんだ……」
純粋な感嘆。
その声を聞いて、リリアはちらりと横目で柚葉を見た。
――そして、内心で、ほんのわずかに眉をひそめる。
(……いや)
(おかしい)
本来、この魔法はここまで効かない。
身体能力の底上げは想定内。疲労軽減も、計算通り。
だが――
(認知処理が、加速しすぎてる)
視線の動き。反応の速さ。そして何より、“迷いのなさ”。
まるで、身体強化に引きずられる形で、思考そのものが一段階、上のレイヤーに引き上げられている。
(普通の人なら……ここまで噛み合わない)
リリアは、表情を変えずに前を向いたまま、結論を出す。
(……聖女の資質と、共鳴してる)
魔法が“強化”されているのではない。受け取る側が、異常に適合している。
「研究職だから」
表向きは、いつも通りの一言。それだけ言って、視線を前に戻す。だが、口の端が、ほんの少しだけ緩んでいた。
(……やっぱり)
(面白いな、この人)
速く歩いているはずなのに、思考は澄み、視界は冴え、世界は静かだ。
その異常さに気づいているのは――今のところ、リリアだけだった。
ルシエルは、その様子を見て静かに頷く。
「これなら、街道の状態を確認しながらでも、日没前に到達できる」
王子の判断に、誰も異論はない。
結果として。
彼らは“歩いている”にも関わらず、通常の何倍もの速度で、クンナ村へと近づいていった。




