第6話 黒髪の乙女は、世界を癒して愛を知る
戦場に、しばしの静寂が訪れた。
オークジェネラルの巨体が崩れ落ち、赤い炎が灰に変わっていく。
体がふらつき、重力に引きずり込まれそうになる――それでも柚葉は、膝をつくまいと立ち続けた。
呼吸が荒い。視界が揺れる。
「……ル、シエル……さ......ま……」
喉の奥から漏れるかすれ声。
それでも、彼女の瞳にはまだ――“助けを求める誰か”を見ていた。
倒れた村人たち。
焦げた家々。
泣き叫ぶ子供を抱きしめる母親。
その光景が、胸の奥を締め付ける。
(……まだ……まだ助けを求めている……誰かが死ぬなんて、いや……)
力が抜ける指先に、ふと――温かな風が触れた。
黒い髪がふわりと揺れる。
次の瞬間、髪先から無数の黒い蝶がふわりと舞い上がった。
夜明けの星々のような柔らかい光が、柚葉の身体を包み込む。
それはまるで、夜空に流れる黒い流星が、世界に命を還していくかのようだった。
「な……んだ、この光は……」
ルシエルが息を呑む。
黒髪のひとふさ一房が、淡く金の輝きを帯び、空気中に舞う黒の蝶が彼女の周囲を巡る。
まるで黒蝶そのものが、彼女の祈りに応えているかのようだった。
やがて、蝶は波となり、人々の傷へそっと降り注ぐように触れ、銀の星光が淡くこぼれ落ちると、痛みも怪我も、疲労さえも雪のように溶かしていく。
「いた……いの、が……なくなった……!」
「腕が、動く……!」
「……あの娘が……癒している……!」
老人の傷が消え、子供の涙が止まる。
騎士たちの深く傷ついた腕が癒え、血の跡が黒き光の粉となって消えていく。
それは――聖なる奇跡。
しかし、その奇跡の中心で、柚葉の顔色が、ゆるやかに色を失っていった。
「だめだ、もうやめろ! それ以上は――!」
ルシエルがもどかし気に柚葉の方を優しくゆすぶる。
だが、柚葉は微笑んで、首を振った。
「……だいじょうぶ……あたし……こういうの、慣れてる……“締め切り前の徹夜”とか……」
「そんな冗談を言ってる場合じゃない!」
光が一瞬、はじけ、癒しを終えた蝶たちは、ひとひらの光にほどけるように静かに消えていく。
眩い輝きの中で、柚葉の身体から力が抜けた。
ルシエルが、即座に抱きとめる。
「ユズハっ!」
その腕の中で、彼女のまつげが震えた。陽の光が、彼女の黒髪に反射して、まるで天上の水面のように煌めく。
「……よかった。みんな、無事……だね……」
「君が……君が、救ったんだ」
ルシエルの声は、震えていた。
彼の手が、彼女の頬に触れる。指先に伝わる熱が、切ないほどに確かな命の証だった。
「もう二度と……こんな無茶はしないでくれ」
「……ごめん。でも、放っておけなくて」
柚葉の唇が、かすかに笑った。
その笑みがあまりにも儚げで、ルシエルの胸が軋む。
彼は、そっと彼女の額に触れた。
黒い髪に指を滑らせながら、静かにささやく。
「――君のその黒は、やはり、神の祝福だ」
陽光が二人を包み、焦げた村の跡地に、柔らかな風が吹いた。
光の粒が青空に還り、淡く金の陽光が差し込み、風が焦げ跡の上を優しく撫でていく。
瓦礫の間からは、まだ煙が立ちのぼっている。
その中心で、ルシエルはそっと膝を曲げ、柚葉をそれは優しく抱え上げた。
彼女の黒髪は光を受けて、淡く透けるように揺れる。
癒しの聖光が残した金の粒子が、まだ空気の中を漂っていた。
「……ルシ......エル様……」
柚葉の唇が、かすかに動く。
「……あたし……重くないですか……?」
ルシエルは思わず、ふっと息を漏らした。
緊張と安堵の入り混じった、優しい笑み。
「……重いな」
意識の底に沈みそうになっていた柚葉の瞳が、その言葉でぱちりと開く。
「……えっ」
ルシエルは少しだけ目を細め、彼女の額に落ちる黒髪を指でそっと払った。
「――僕の心に、だ」
それは、炎の跡に吹く風のように柔らかく、けれどどこか切なさをはらんだ声だった。
「君が倒れた瞬間、世界が止まった気がした。……それくらい、重い」
「……ずるい言い方です……」
「そうか?」
「……王子様がそんなこと言うの、ずるいに決まってます」
柚葉の声は微かに震えていたが、その表情には安堵の色がにじんでいた。
ルシエルは小さく息をつき、彼女の指先を握る。
「もう……無茶はしないと、約束してくれ」
「う……うん……気をつけます……次からは、たぶん……」
「“たぶん”じゃない」
「そ、それは前向きな“たぶん”ですっ」
ルシエルの眉がわずかに上がり、そして苦笑した。
「……全く。君という人は……」
その声音には叱責よりも、深い安堵が混じっていた。
彼はそっと柚葉をしっかりと抱き直す。
空気が、少しずつ温かさを取り戻していく。
風が二人の間を抜け、金と黒の髪をやわらかく揺らした。
「――君なら、何度でも抱きとめる」
その言葉に、柚葉のまぶたがゆっくりと落ちていく。
最後に、微笑むように小さく呟いた。
「……じゃあ……もう一回だけ……お言葉に、甘えますね……」
眠るように彼の胸に寄り添う柚葉。
ルシエルはその黒髪を撫でながら、淡く笑った。
「……ああ。一回と言わず何度でも甘えればいい」
白い霧の中、光の粒が天へ昇っていく。
戦火の跡に残されたのは、――癒えた傷と、ひとつの約束。
それは、黒髪の少女と陽光の王子が交わした、最初の約束だった。




