第64話 歴史から消された王子と、邪神に囚われた聖女
虚邪の穢れが、濃密な瘴気となって地を覆っていた。
大地は裂け、黒紫の脈動が鼓動のように脈打ち、踏みしめるたびに不快な低音が足裏から骨へ伝わる。
ここは、かつて神の名が抹消された地。
反逆の末に存在を削がれ、歴史から“いなかったことにされた神を祀る、禁忌の神殿。
崩れかけた石柱には、意味を失った神代文字が歪に刻まれ、天を支えるはずの天蓋は半ば崩落し、闇に呑まれた空間の奥で、不気味な光だけが瞬いている。
祈りはここでは穢れとなり、願いは歪められ、命は“供物”へと変わる。
神殿の中心。
邪なる祭壇の前で、黒い炎が音もなく揺らめいていた。
それは燃えているのに熱を持たず、影を落としながら、闇そのものを照らす――虚邪の本質を象徴する、不吉な炎。
闇の炎が、彼の頬を淡い赤で照らす。
聖王国ヴァルハイトの王家に生まれながら、歴史のどの文献にも“存在しない”男。
レオハート王の一つ違いの弟――第二王子、ヴァルガ=ヴァルハイト。
その男は黒い外套越しに、静かに息をついた。
目の前に横たわるのは、透明な棺に眠る セレーネ・レガリア・ヴァルハイト。
彼の義姉であり、大陸を照らした“陽光の聖女”であり、そして――生涯、兄の最愛の女性であり続けた者。
ヴァルガ・ヴァルハイト──現国王レオハートの実弟。
その名は、王家の血統書からも、歴史年鑑からも、神殿記録からも、跡形もなく消されている。
だが、それは自然に失われた記録ではなかった。
意図的な抹消。
まるで“最初から存在しなかった”かのように。
その理由は、王家にとって致命的な“汚点になり得る真実”があったためだ。
ヴァルガは幼少より優秀だった兄レオハートとは対照的に、魔力適性も剣の才も“平均以下”と評されていた。
しかし、同時に――感受性だけは異常なほど鋭かった。
その鋭敏さゆえに、王宮の奥深くに潜む“不穏な気配”を誰よりも先に察知し、怯え、泣き、時に奇妙な夢を語った。
「誰かが呼んでいる……闇の底から……古い声が……」
当時はただの“神経の弱い王子”と思われていたが、後にそれが――邪神復活を目論む秘密結社『邪神教団』の“呼び声”であったことが判明する。
彼は、知らず知らずのうちに、その教団にとって“最適な器”として目をつけられてしまっていたのだ。
幼いヴァルガに囁いた闇は、偶然ではない。
選ばれ、誘導され、育てられたものだった。
そしてその囁きは、巧妙に二重の役割を果たしていた。
ひとつは、王子自身の精神を蝕み、家族への劣等感と孤独を増幅させること。
もうひとつは――王宮の人間たちに、「この王子は危険だ」「王家に災いをもたらす存在だ」と思わせること。
やがてヴァルガの心は、闇の声と、周囲の恐れと、不信の視線によって、静かに侵食されていった。
その末路は、あまりにも悲劇的だった。
王宮としては、あまりに不都合な真実だった。
王族が闇に取り込まれつつあるなど、公にできるはずがない。
だが――その判断すらも、すでに教団の思惑の内にあった。
恐怖を煽り、選択肢を削り、“抹消”という結論へと、王家を追い込む。
ゆえに王家は、苦渋の決断を下した。
“ヴァルガの存在そのものを、歴史から消す”
それは、国と王統の威信を守るための必要悪として。
――少なくとも、そう信じさせられていた。
実際には。
その決断こそが、邪神教団にとっての“完成形”だった。
王家の手で、王族の血を引く器を、世界の光から切り離す。
記録から消え、名を呼ばれず、存在を否定された王子は――
もはや、誰のものでもない。
――この世に、彼は最初から存在しなかったことにされた。
ただひとり、兄レオハートを除いて。
それが、後の災厄へと直結することも知らずに。
ヴァルガの抹消は、“終わり”ではなかった。
それは――邪神教団が、正式に彼を手に入れた瞬間だった。
だがむしろ、その空白は王家に呪いのような影を残した。
ルシエルが生まれる前後、王宮内ではひそかに囁かれていた。
「本来なら、第二王子がいたはずだったのでは?」
「何者かが“消した”……?」
公に語られないほど深い闇であるからこそ、噂は根強く残り、跡継ぎの血筋に何かあったという影をまとわせ続けた。
この影は、ルシエルが幼い頃から、王宮の空気にごく薄く、しかし確かに漂い続けていた。
そのため、まだまだ少年だったアーシェスも、ガルディウスも、理由はわからぬまま、漠然と感じていた。
――父王には、決して語られぬ過去がある。
――触れてはならぬ“名前のない傷”が。
だが真実は、本人たちにだけは決して語られなかった。
理由は三つある。
レオハートは、弟ヴァルガに起きた“悲劇を再び繰り返させない”ため、自分の息子たちには一切の情報を与えないと、固く誓った。
「闇に触れさせるわけにはいかぬ。あれは、我が代で終わらせるべき禍だ……」
それは、父として、兄として、そして王としての最後の慈悲だった。




