第61話 獅子王は夜に誓う――失われし光を必ず取り戻すと
深夜。
王城の奥、外界から切り離されたように静まり返った私室に、一本の蝋燭だけが灯っていた。
揺れる炎は弱々しく、しかし確かに闇を拒み、白金の鎧を淡く照らし出す。
その鎧は無数の刃を受け、魔獣の爪に裂かれ、血と土にまみれながら生き延びてきた傷跡が、金属の上に鈍い影として浮かび上がっていた。
それを装備する男の背は、四十を越えた年齢を感じさせぬほど、なお真っ直ぐだ。
鍛え抜かれた体躯に無駄はなく、呼吸一つ、視線のとらえ方一つにまで、戦場で培われた緊張がのこっている。
眼差しは獣のそれに似ていた。
衰えぬ闘争本能と、獲物を見失わぬ執念を宿した、王にして戦士の目。
《獅子王》レオハート。
齢四十三。
王冠を戴く身でありながら、剣を取れば常に最前線に立ち続けてきた男。
退くことも、譲ることも許されぬ人生を歩んできた、“現役”の怪物。
彼は椅子に腰掛けたまま、ただ蝋燭の炎を見つめ続けていた。
長い沈黙。
城の奥深くに満ちる静寂の中で、ようやく――
「……やっとだ」
低く、擦れるような声が零れ落ちた。
それは勝利を告げるものではない。歓喜とも、安堵とも言い切れぬ。
胸の底に沈め、幾千の夜を越えて押し殺してきた想いが、耐えきれず、わずかに表へにじみ出ただけの音だった。
「虚邪の穢れの奥に……微かだが、確かにあった」
炎に映る黄金の瞳が、わずかに細められる。
「……セレーネの残り香が……」
その名を口にした瞬間、拳が知らず強く握り締められた。
鎧の継ぎ目が、きしりと小さく鳴る。
「千の夜を越えて探し続け……」
吐息が混じる。
「……ようやく、辿り着いた」
王としての言葉ではなかった。戦士としての咆哮でもない。
「――まだ、完全には失われていなかったのだな……!」
それは、夫としての、切実な実感だった。
その刹那。
蝋燭の火が、ふっと大きく揺れ、影が壁一面に歪む。
まるで、闇の向こう側から何かが応えたかのように。
まるで、その言葉に応えるかのように。
レオハートは、なおも蝋燭の炎から視線を外さぬまま、低く名を口にした。
「……大聖女リディアーヌより託された誓約霊――ミルティナ、か」
呼びかけというより、確かめるような独白。
その声音は王のものだったが、そこににじむ温度は、かつて剣だけを頼りに生きていた、一人の男のそれだった。
「リディアーヌは、嘘を言わぬ。ましてや……この件で、誓約霊を偽るはずもない」
炎の奥を見据え、静かに続ける。
「確かに、受け取った欠片には宿っていた。……あれは紛れもない。セレーネだ」
一拍。
「――我が最愛の者の、残り香だ」
蝋燭の火は、ただ静かに揺れ続ける。
否定も肯定もせぬまま、事実だけを照らすように。
その淡い光の中で、《獅子王》の金の瞳は鋭さを増していた。
獲物を見定める獣のそれであり――同時に、失われたものを必ず取り戻すと誓う、男の眼だった。
――王でなければ。
その肩書きがなければ。
この身が王国という巨大な楔でなければ。
レオハートは、とうに剣を取っていただろう。
玉座も、秩序も、責務もかなぐり捨てて――ただ一人の男として。
(……あの日と、同じだ)
胸の奥で、遠い記憶が軋む。
まだ《獅子王》と呼ばれる前。
名も、国も、未来すら背負っていなかった頃。
仲間と並び、剣を振るい、生き延びることだけを考えていればよかった時代。
蝋燭の炎が、ふっと横へ流れた。
誰も触れていない。
風も、気配もない。
それでも火は、まるで“何かが近づいた”ことを告げるように、不自然な揺らぎを見せていた。
「使命だの、責務だの……相変わらず重たい言葉を背負ってんなぁ」
闇の奥から、鉄と鋼が擦れ合うような、低く乾いた声が落ちてくる。
「本音は違うだろ。――自分の手で、決着をつけたいだけだ」
気づいたときには、すでに“そこに立っていた”。
重盾戦士――ドルガン。
人ひとりを完全に隠しきるほどの大盾を背負い、その一歩も、半歩も退かぬ姿勢で戦線に立つ男。
かつて幾度となく、仲間たちの生死を分ける最前線で、“退路そのもの”として在り続けた砦だった。
敵軍三百の突撃を、たった一人で食い止めた夜がある。
矢を受け、斧を受け、魔術を受け――それでも盾は下がらず、背後の仲間は一人も欠けなかった。
剣を振るわずとも、声を荒げずとも、ただそこに立つだけで、戦場の流れを止める。
動かぬ壁。
仲間が背を預ける、最後の砦。
気配は、ない。
殺気も、ない。
だが――“そこに在る”という事実そのものが、空間を押し潰すような圧を生んでいた。
「……やれやれ」
レオハートは、炎から視線を外さぬまま、わずかに口元を緩める。
「お前は本当に、昔から勘がいい」
「お前もな、“若造”」
ドルガンが短く鼻を鳴らす。
言葉は少ない。
だがその間には、戦場で何度も交わした合図のような呼吸があった。
剣を振るう者と、盾を構える者。
前へ出る王と、決して退かぬ壁。
かつて幾度も背を預け合った二人は、今も変わらず――同じ戦を、同じ覚悟で見据えていた。
そして――
「随分、遅かったじゃない。レオ」
今度は、闇が溶けるような柔らかな声が落ちた。
蝋燭の炎が、ふっと揺れる。
それに応えるかのように、光を帯びた金髪が静かに波打ち、ひとつの影が、迷いなく光の円へと踏み出した。
ハイエルフの弓魔――アウロア。
しなやかな長身。
月光を溶かしたような金の髪は腰まで流れ、尖りすぎぬ耳の輪郭が、かえって人ならぬ血の濃さを際立たせている。
白磁のような肌は薄衣越しにも艶を宿し、弓を引く指先には、戦場を知る者だけが持つ張り詰めた美しさがあった。
その面差しは、大聖女と称えられたリディアーヌに、驚くほどよく似ている。
白に近い銀糸の髪ではなく、熟れた麦穂のような金。
雪のように清冽な祭服ではなく、身体の線を隠しきらぬ軽装。
神に捧げられた静謐ではなく、生き、戦い、選び続けてきた女の――色香。
精霊魔法と長弓を併用する希少な戦闘術師。
風を射線に変え、樹木を盾にし、敵の指揮官だけを正確に射抜く。
かつて《翠嵐の谷》で、敵軍の魔導部隊を一晩で沈黙させた夜があった。
誰一人、彼女の姿を見ていない。
残ったのは、風に貫かれた矢痕と、精霊の囁きだけ。
遠距離から戦況を支配し、それでいて前線の誰よりも冷静に、仲間の生死を見つめていた。
“後衛の女王”。
「セレーネの残り香を感じたら……黙っていられるわけ、ないでしょう?」
微笑みは柔らかい。
だがその瞳――深い翠は、獲物を逃がさぬ射手のそれだった。
「……あの子は、妹みたいな存在だったもの」
声音に、わずかな熱が混じる。
守れなかった悔恨と、今度こそ手放さぬという決意。
その名を聞いた瞬間、レオハートの喉が、わずかに震えた。
「……アウロア」
王ではない。《獅子王》でもない。
ただ、かつて同じ戦場で、血と夜と風を分け合った仲間の名を呼ぶ声だった。
蝋燭の火が揺れ、三人の影が、壁の上で重なり合う。




