第60話 (後パート) 闇に囚われた大地母神の巫女、聖獣の命を賭した契約の誓い
――と、その瞬間。
闇の底から、微かに“音”がした。
ひび割れた石が軋むような、土の奥底で脈動するような、《何かが目覚めるのを待っている》ような不気味な響き。
ぞくり、と身体が強ばる。
(……この音……知ってる……)
いいえ――正しくは“知ってしまった”。
ここへ囚われてから、何度か無意識に聞いていた音。
恐ろしくて理解しないようにしていた、その“心臓の音”のような脈。
そして――そこから流れてくる微細な光の残滓。
(まさか……セレーネ様……?)
答えは、闇の向こうから返ってきた。
目に見えないはずなのに、像が脳裏へ直接流れ込んでくるような強烈な感覚。
ミレフィーオの視界の“外”で、世界が像を結んだ。
――破滅した神殿。
天井の半分が抜け、黒い蔦と穢れが這う古い円形の祭壇。
その中央。
まるで“王を迎える玉座”のように、神々の系譜から排斥された“異端の神”の紋様が刻まれた石棺が、静かに置かれている。
その棺の中――冷たい眠りにつくひとりの女性。
金の髪は光を失い、白い手は胸の上で静かに組まれ、それでもなお聖性の気配が薄く漂う。
セレーネ・レガリア・ヴァルハイト。
虚邪の闇を背にした秘密結社が一度奪い、ここに“鍵”として囚え続けている肉体。
(……いや……そんな……どうして……!)
答えを出すより先に、闇が囁いた。
『――フフ……“陽光”ノ聖女……美味ナリ……其ノ死サエ、邪神ノ糧ニ……』
空気が震えた。
神殿の像が、ミレフィーオの意識の奥に刻まれた。
理解してしまう。
セレーネの残滓は、誰かの祈りでも、奇跡でもなく――
“棺の中の身体”そのものからにじみ出た、微かな魂の断片。
彼女は完全には消えていない。
けれど同時に、生き返ることも許されていない。
この世界では、いかなる死者も蘇らない。
そして本来なら、魂はやがて輪廻の流れへと還るはずだった。
だが彼女は、そのどちらからも切り離され――死でもなく、生でもなく、輪廻にすら至れぬまま、現世に縛り留められている。
“鍵”として、存在を抹消された反逆の神の復活儀式に組み込まれるまで、この闇に囚われ続けているのだ。
(……やめて……そんなの……セレーネ様は……)
胸が裂けるような痛みが、込みあげた。
彼女の光がミレフィーオを守っているのは、意志か、残された使命か、ただの反射か――もう分からない。
ただひとつだけ確かなのは。
セレーネはまだ、闇の前で“屍のまま囚われている”。
そして同時に――ミレフィーオの足元へさざ波のように広がる穢れは、その棺に“供物”を捧げるための前段階。
虚邪の闇が、ゆっくりとミレフィーオの喉元へ忍び寄る。
それは触れるというより、存在そのものを侵食する冷気だった。
『――オマエモ……“鍵”ニ……ナル……』
囁きは声ですらない。
大地の底から滲み出た呪詛が、背骨をなぞり、魂の奥へ爪を立てる。
呼吸が、浅くなる。視界の端が、闇に滲みかけた――その瞬間。
金色の光が、空間を切り裂いた。
――イルヴァ。
聖獣は外側から、虚邪の結界へと喰らいつく。爪は砕け、喉元は裂け、白い血が宙に散る。
それでも怯まず、己の命そのものを燃やすように、聖なる生命力を叩きつけていた。
それは攻撃ではない。防御でも、抵抗でもない。
「契約」による応答。
主が命じる楔を守るためなら、魂が擦り切れようと、存在が消えようと構わないという、古き聖獣の誓いそのもの。
(……イル……ヴァ……)
名を呼ぶことすら叶わず、ミレフィーオの胸に、熱が満ちる。
それは恐怖ではなかった。
希望でも、救済でもない。
誰かが、命を賭して自分を繋ぎ留めているという、確かな重み。
闇は、わずかにたじろいだ。
虚邪の囁きが、歪む。
金色の光は、血に濡れながらもなお、静かに、しかし揺るぎなく――彼女を包み込んでいた。
その軋みは、ただの石の音ではなかった。
まるで――長い、長い沈黙の果てに、「待っていた」と告げる鼓動のように。
神殿の奥で、空気がわずかに歪む。
闇が濃度を増し、祈りと希望を押し潰そうと、重く垂れ下がってくる。
『……呼バレ……思イ出シタ……』
誰のものとも知れぬ思念が、柱の影から、天井の裂け目から、石畳の隙間から、にじみ出す。
『鍵……抗ウ……ダガ……ソレモ……ヨイ……』
愉悦を含んだ囁き。
抵抗すらも、儀式の一部であるかのように。
ミレフィーオは歯を食いしばった。
足は震え、膝が崩れそうになる。それでも、倒れない。
――背中に、確かに“触れたもの”があったから。
柔らかな光。
棺の中から滲み出た、陽だまりのような残滓。
もう言葉は届かない。
けれど、それでも伝わる。
生きよ。抗え。諦めるな。それが、陽光の巫女セレーネが残した、最後の祈り。
(……負けない……)
ミレフィーオは、ゆっくりと顔を上げた。涙は、まだ落とさない。
(……わたしは、“鍵”じゃない……誰かの道具でもない……)
胸の奥で、小さな灯が揺れる。
それはまだ、炎とは呼べない。
だが――確かに、消えてはいなかった。
闇が、再び蠢く。
石棺が、重く、深く、喜びを噛み殺すように軋む。
まるで確信しているかのように。
――いずれ、この祈りすら呑み込めると。
だがその確信の裏で。
星々は、すでに動き始めていた。




