第60話 (前パート) 闇に囚われた大地母神の巫女、聖獣の命を賭した契約の誓い
……暗い。
暗い、なんて言葉では足りない。
“光”という概念そのものが、この場所には存在しない。
視界ではなく、世界が閉ざされている。
まるで目を開けているのか閉じているのかすら判別できないほどの、無の闇。
動かそうとした手足は、まるで泥に沈んだみたいに鉛より重く、冷たく、しびれていた。
(……こ、ここ……どこ……? わたし……まだ、い……る……?)
思考が、波に呑まれた砂みたいにすぐに崩れる。
まともに形を保つのが難しい。
黒い“何か”が足元から胸元へ、ゆっくり、じわりと這い上がってくる。
それは風でも、水でも、煙でもない。感情を腐らせ、意志を食べる“穢れ”。
虚邪の闇は、触れられるより怖い。
触れられた瞬間――自分が自分でなくなる。
(だ……め……負けちゃ……だめ……大地……母神さま……わたし……)
意識が落ちるたび、ほんのかすかに足裏へ“何か”が触れた。
それは――地面ではない。
けれど確かに、大地そのものの息づかいのような安らぎ。
――《グランテルメス》の……気配。
荒れ狂う闇の中で、それだけが“足が地についている”と教えてくれる。
その微細な加護は、まるで土に根を張る芽が、暴風の中で必死に折れまいと踏ん張る感覚に似ていた。
(……わたし……聖女……候補……まだ……倒れられな、い……)
闇が耳元で嘲笑う。
声のようでいて声ではなく、直接脳に融ける気配。
『――オマエノ“聖性”……スバラシイ……アア……クダケ……トロケロ……』
ぞわり、と背骨を氷の指がなぞったように震える。
思考が黒に塗りつぶされそうになったその瞬間――
別の“光”が、ふっと胸の奥で瞬いた。
……あれは。
(……この波……この感じ……懐かしい……)
柔らかい光。
太陽よりあたたかく、けれど炎より凛としていて、優しくて、強くて……涙が出そうなほど澄んだ気配。
名を呼ばなくても分かる。
――セレーネ・レガリア・ヴァルハイト。
大陸随一の陽光の巫女と謳われた人。
そして、もうこの世にいないはずの“聖女”。
これは残滓。
それでも、“光”という存在が確かに彼女を守ろうとしている気配。
(……セレーネ様……どうして……まだ……)
その残り香みたいな光が、虚邪の闇へ触れるたび、闇がざらりとさけるように歪んだ。
そこに――闇の外から、別の脈動が流れこんできた。
規則的で、強くて、どこか焦ったような……必死の気配。
ミレフィーオは、その波を知っていた。
(……イルヴァ……?)
アーシェスの聖獣――金色の紋様をまとった小さな光の獣。
そのイルヴァが、外側から闇を叩き割ろうと、命を削るように聖なる生命力を送り続けている。
『――ッ……ミレ……ィ……オ……!』
声にならない思念。
断片的で、途切れ途切れなのがその必死な様子が浮かぶ。
(……だめ……それ以上……そんなこと……したら……)
胸が、締めつけられる。
わかっている。
イルヴァが何をしようとしているのか。その代償が、どれほど大きいのか。
(……命を……削っ……ちゃ……だめ……!)
叫びは、内側で暴れるだけで、外へは出ていかない。
声にならない悲鳴が、胸の奥で何度も反響する。
代わりに胸の奥が、泣きそうなほど震えた。
セレーネの残滓の光。
グランテルメスの大地の加護。
そしてイルヴァの必死な脈打ち。
それらが細い糸のように絡まり、ミレフィーオの意識は、崩れそうになりながらも辛うじて形を保っていた。
(……まだ……大丈夫……わたし……)
闇は再び押し寄せ、視界も感覚も奪おうとする。
耳の奥で、ぞぶり、と何かが泡立つおぞましい音が響く。
『――アア……ツカマエタ……コノ“心”……我ニクレ……』
その瞬間――
胸の奥で、光が強く、凛と立った。
(……わたしはっ……!)
声にならずとも、魂が叫んだ。
(わたしは……聖女候補っ……! まだ終われない……助けを待ってる人が……いる……!)
闇の縁から、微かな金色がひとしずく流れこんだ。
イルヴァの、泣きそうな、折れそうな、でも諦めない想い。
その光に触れ、ミレフィーオは――かすかに、確かに“笑った”。
(……アーシェス様……ガルディウス様……待ってます……だから……来て……)
完全な暗闇の中で、ミレフィーオはひとり、静かに、でも強い意志で立ち続けていた。
崩れ落ちる寸前の、聖女候補としての矜持だけを胸に――。
闇を押し返すように胸の奥で震えていた“光”。
セレーネ・レガリア・ヴァルハイト――
陽光の巫女と呼ばれた女性の残滓。
けれど、どうして。
彼女はもう、この世を去っているはずだった。
国葬が行われ、聖堂に眠ったと――そう、教えられてきた存在のはずなのに。
(……でも……確かに、“ここ”に……いる……?)
胸の奥が、ざわりと騒ぐ。
否定したい理性とは裏腹に、感覚だけが静かに告げていた。
これは幻ではない、と。
ミレフィーオは知らない。
セレーネの亡骸が、完全な形で弔われたかどうか――その事実そのものが、王国においてもごく限られた者にしか知らされていない、最上位の秘匿事項であることを。
王家の奥深く、神殿のさらに裏側で、“もしもの可能性”として封じられ、語ることすら禁じられてきた、忌まわしい空白。
それが今、ありえないはずの形で、ここに触れている。
ミレフィーオは、意識を研ぎ澄ませるように、その残滓が流れ込んでくる方向へと、静かに神経を寄せた。
知らぬまま踏み込んでいるのは、王国の闇の中でも、最も深い場所だということに――まだ、気づかないまま。




