第59話 星雫の聖女の灯を守るため、氷と炎、そして光は動き出す
張りつめた空気の只中で、大聖女が静かに星杖を床へと下ろす。
澄んだ音がひとつ響き、それは水面に落ちた雫のように、広間全体へと波紋を広げていった。
「……星々は、すでにその配置を示しておりました」
声は柔らかく、しかし抗うことを許さぬ重みを帯びている。
人の判断を超えた“理”が、そこにあると誰もが理解させられる響きだった。
「氷は道を描き、炎は前を拓く。静と動――その二つが揃ってこそ、闇へ至る径は崩れぬのです」
言葉とともに、アーシェスとガルディウスの間を結ぶ見えない線が、ほんの一瞬だけ星光として浮かび上がった。
それは指示でも命令でもなく、もとよりそこに在った関係性を、天がなぞったに過ぎないかのようだった。
「王の采配は、神託と矛盾しません」
大聖女は穏やかに微笑む。
「これは“選択”ではなく……最初から定められていた“役割”。星は、ただそれを映しただけです」
その言葉が落ちると同時に、広間に迷いの消えた空気が満ちた。
誰もが理解したのだ。今ここで語られているのは、人が決めた作戦ではなく――世界の流れそのものなのだと。
レオハートは小さく息を吐き、覚悟を定めた声で頷く。
「よし。ならば話は早い」
王の声が、静かに、しかし確かに広間を支配する。
「ミレフィーオ奪還を最優先とする。虚邪の動きがあれば、即時対応――」
その言葉の端で、柚葉はふと、胸の奥に灯る小さな星を感じていた。
氷が道を示し、炎が進む。ならば、自分は――その道を照らす光。
(……みんな、本気だ)
逃げ場は、もうない。
だがそれは恐怖ではなく、信頼という名の重さだった。
星杖の先で、淡い光が静かに揺れる。
そして誰もが悟る。
――事態は、動き出しているのだと。
大聖女は星杖を軽く地に突くと、三人の王子に柔らかくも鋭い眼差しを向けた。
「――では、それぞれの力をもって、ミレフィーオの行方を追いましょう」
その声は柔らかく、それでいて逃げ場を許さぬ確かさを帯びていた。
「アーシェス殿下。あなたの聖獣イルヴァが残した痕跡は、星道により追えます。氷の理で全体を読み、捜索の要となりなさい」
アーシェスは一歩も動かず、静かに首肯する。
「レオハート陛下。王都および周辺領の結界強化と、不要な情報の遮断を。虚邪は混乱を好みます」
「承知している」
王の声は短く、重い。
「そして――ガルディウス殿下」
大聖女の視線が、最後に炎の王子へ向く。
「虚邪の濃い地帯へ踏み込む先遣を。力で道を切り拓く役目は、あなたに最も相応しい」
「任せな」
ガルディウスは口元を歪め、楽しげに笑った。
王の瞳には覚悟の炎が。
アーシェスの胸には、言葉にしない焦燥と誓いが。
ガルディウスの笑みには、戦場へ向かう獣の昂ぶりが。
それぞれ、確かに灯っていた。
やがて星光の陣が静かに消える。
それぞれの役目が告げられ、広間に静かな緊張と覚悟が満ちていく。
星光の陣が、ゆっくりと淡さを失い始めた、そのとき。
大聖女は、ふと視線を巡らせ――最後に、柔らかな光を宿す王子へと向けた。
「……そして、ルシエル殿下」
名を呼ばれ、彼はわずかに姿勢を正す。
「あなたは剣でも、策でもありません」
一瞬、広間の空気がどよめく。
「されど――星雫の聖女が“折れぬ光”で在り続けるために、あなたの存在は欠かせない」
大聖女の声は、静かで、慈しみに満ちていた。
「支えなさい。導こうとせず、背負おうとせず、ただ……隣に在る者として」
ルシエルは、驚いたように一瞬目を瞬かせ、それから深く、確かに頷いた。
「はい。ボクは……ユズハの光を、曇らせません」
誓いは大きな言葉ではなかった。
だがその声音には、揺るがぬ決意が宿っていた。
その余韻の中で――大聖女は、ゆっくりと歩み寄り、そっと柚葉の肩に手を置いた。
触れた指先から伝わるのは、星光の温もりと、逃げ場を与えぬ確かな意思。
「ユズハ。あなたの“光”は、いずれこの捜索にも必要となるでしょう。ですが今は……その時に備え、力を整えておきなさい」
その言葉に、柚葉は自然と背筋を伸ばした。
聖女として名を刻まれた瞬間から、ただ守られる存在ではいられないことを、すでに理解していたから。
だが、大聖女は続ける。
「ですが……あなたには“備える”だけではなく、今この国に必要な務めがあります」
柚葉の瞳が、わずかに見開かれる。
胸の奥で、星の光が小さく脈打った。
「かつて、あなたが初めて模型神の加護を呼び出した地――オークジェネラルが暴れ、虚邪に汚された村を覚えていますね」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が、きゅっと音を立てた気がした。
炎に包まれた景色。恐怖に震える声。泣き叫ぶ子どもたち。
そして――守りたいと願ったあの時、初めて光が応えてくれた瞬間。
「はい……忘れていません」
小さく、だがはっきりとした返事だった。
「今もなお、あの周辺には虚邪の残滓が澱み、ここ近年の冷夏と不作が人々を苦しめています」
大聖女の声は、過去を責めるものではない。
ただ未来へ導く者の、それだった。
「ユズハ。あなたの“星降る巫女”としての再生の力――そして、聖女として世界を癒す力を、そこで試しなさい。虚邪の穢れを鎮め、大地と季節を、本来あるべき流れへと戻すのです」
その言葉に、王族たちの視線が一斉に柚葉へ集まる。
期待、試す眼差し、そして確かな信頼。
一瞬だけ、迷いが胸をよぎった。
だが柚葉は、深く息を吸い込み、そのすべてを胸の奥に受け止める。
「……わかりました」
声は決して大きくない。
けれど、そこに揺らぎはなかった。
「必ず、やります。ミレフィーオさんを助けるためにも……この国で、今も苦しんでいる人たちのためにも」
大聖女は、その答えを聞いて満足そうに微笑んだ。
「ええ。それでこそ――星雫の聖女」
その瞬間、柚葉の胸の奥で、三つの光が静かに共鳴する。
互いを確かめ合うように、しかし確かな強さをもって。
(……始まるんだ)
それは戦場ではない。剣を振るうことも、敵を打ち倒すこともない。
それでも――確かにこれは戦いだ。
虚邪に歪められた世界を、取り戻すための。
星の光が、彼女の内でそっと瞬いた。
それは、聖女ユズハ・スターリィティアが歩み出す、新たな灯だった。
そのかすかな輝きに、すぐ傍でルシエルは気づいていた。
誰よりも近くで、誰よりも慎重に――
光に手を伸ばすのではなく、光が歩む道を整える者として。
彼は声を張らない。
ただ、柚葉の背後に立ち、静かに息を吸った。
(……決めた)
星雫の聖女としての名も、三つの光を宿す奇跡も、そのすべてを背負わせるつもりはない。
(君が世界を照らすなら――ボクは、その影になろう)
誰にも気づかれぬよう、けれど確かに誓うように、ルシエルは一歩、彼女の側へ近づいた。
剣に手を置くこともなく、王子としての威光も示さず、ただ“支える者”として。
(怖い時は、ボクを見るといい。迷った時は、手を伸ばしていい)
その決意は言葉にならない。
けれど、柚葉の背中に寄り添うように、確かに在った。
それは、聖女ユズハ・スターリィティアが孤独な光にならぬための――もうひとつの、やさしい光だった。




