第58話 氷の沈黙と炎の衝動、大地母神に託す王子たちの本心
その沈黙こそが、氷の王子アーシェスの覚悟だった。
柚葉は、大聖女の言葉をすべて聞き終えたあと、すぐには声を出せずにいた。
胸の内に浮かんだ思いを、そのまま言葉にしてしまってよいのか――ほんのわずかなためらいが、彼女の足をその場に留めさせる。
それでも、視線は自然と彼へ向いた。
アーシェス。
静かに目を閉じたその横顔には、張りつめた硬さがあり、王子として感情を律し続けてきた者だけが纏う冷ややかな静謐があった。
けれど柚葉には、その奥が見えてしまった。
閉ざされた瞳のさらに深く――凍った湖面の底で、かすかに揺れているもの。
押し殺された焦りと、祈りにも似た願い。
声を張るのは、違う気がした。
励ましでも、断定でもなく、ただ“感じたこと”を、そのまま差し出すように。
「……殿下」
呼びかけは、ほとんど息に近い。
場の空気を乱さぬように、そっと置かれた一言だった。
「聖獣の子……イルヴァ、でしたよね。その紋様は……まだ、消えていませんよね」
柚葉は、彼の肩元に漂う淡い金の紋様を見つめながら、確かめるように続ける。
「それって……まだ、殿下の声が届く場所にいる、ということですよね」
そこには押しつける意志も、慰めようとする計算もなかった。
ただ、星光に触れた者として自然に胸へ落ちてきた感覚を、言葉にしただけだった。
「ミレフィーオさんも……きっと、同じです」
一拍、呼吸を整えてから、柚葉は続ける。
「戻りたいって、思っているから……つながりが、まだ切れていない。そう……感じます」
それは聖女としての宣告ではない。
ましてや、王子を導こうとする言葉でもなかった。
――ただ、星に触れ、縁の温度を知った者としての、素直な実感だった。
アーシェスのまつげが、ほんのわずかに揺れた。
一瞬だけ、氷の静寂に小さな波紋が走る。
だが彼はすぐに表情を整え、いつもの冷ややかな落ち着きをまとい直す。
「……軽率な慰めは不要だ」
淡々とした声。
王子としての距離を保つ言葉。
けれど――
「だが」
言葉が、ひと拍だけ止まる。
それは彼にしては、あまりにも珍しい”間”だった。
「……貴女の言葉は、事実に即している。悪くない」
氷の壁が、きし、と小さく鳴ったかのような一瞬。
すぐに、いつもの冷静さが戻る。
「戻るべき者は、必ず取り戻す。それが王族としての責務だ」
声は静かで、揺れはない。
だが柚葉には――
その奥で、確かに燃えている熱だけが、はっきりと伝わっていた。
重い沈黙が広間に落ちた、そのときだった。
張りつめた空気を、力任せに引き裂くような豪快な笑いが響く。
「ハッ! ……ようやく、出番ってわけだな!」
ガルディウスが一歩前に出て、肩を回す。
鎧の下で筋肉が鳴り、戦場の匂いを嗅ぎ取った獣のような気配が立ち上った。
「隠密だの、探索だのは兄貴や連中に任せりゃいい。オレは――見つけた場所がどこだろうと、踏み込んでぶっ壊す。それだけだ」
荒っぽい言葉。
だが、その笑みはただの軽薄さではない。
「虚邪の巣だろうが、封印領域の奥だろうが関係ねぇ。出てきたもんは全部叩き割って、聖女候補を連れ帰る。それで十分だろ?」
「ガルディウス」
低く、冷えた声が割って入る。
アーシェスだった。
「力任せに殴り込んでいい相手ではない。虚邪は場所そのものを罠に変える。無策で踏み込めば――」
「わかってるさ」
ガルディウスは肩をすくめる。
「兄貴の説教なんざ、森の鳥より耳にしてきた。作戦も、段取りも、大事なのは百も承知だ」
だが、その次の瞬間。
彼の瞳が、ぐっと細められた。
「……でもよ」
声音が、わずかに低くなる。
「ミレフィーオがどこかで、今この瞬間も助けを待ってるってんなら――オレは、じっと座ってられねぇ」
一拍。
その沈黙のあいだに、幼い日の光景が、二人の脳裏によぎった。
王城の裏庭。
ルミナリア家から預けられた、小さな聖女候補。
転べば泣き、泣けば――なぜか、必ず二人の王子のもとへ駆けてきた少女。
剣の稽古の合間に、無骨な手で頭を撫でたのはガルディウスだった。
黙って距離を取りつつ、彼女が転ばぬ位置に立っていたのは、いつもアーシェスだった。
「戦好きで悪かったな」
ガルディウスは、わずかに口角を上げる。
「でもよ。あいつは――大地母神の聖女候補だからってだけじゃねぇ」
拳を、ゆっくりと握る。
「オレたちが、ガキの頃から知ってる“ミレフィーオ”だ。セレーネ母上の実家繋がりの子で、泣き虫で、でも妙に頑固で……」
視線が、まっすぐにアーシェスへ向けられる。
「守りたいもんがあるって点じゃ……兄貴と、変わらねぇだろ?」
その言葉に、アーシェスは一瞬だけ息を呑んだ。
反論は、出なかった。
氷の王子は視線を伏せ、静かに息を整える。
――理解してしまったからだ。
ミレフィーオが“聖女候補”である以前に、ルミナリア家の少女であり、そして――自分たちの時間の中に、確かにいた存在だったことを。
氷の奥で、かすかな痛みが軋む。
それは、戦略では測れない領域に踏み込んでしまった証だった。
広間に、再び沈黙が降りた。
だがそれは、先ほどまで場を支配していた重苦しい停滞とは異なる。誰もが言葉を探して黙しているのではなく、すでに心の奥で決断を終え、次の一歩を待つために生まれた――動き出す直前の静けさだった。
その沈黙を破ったのは、やはりレオハート王であった。
彼はゆっくりと歩み出る。その所作には、王として積み上げてきた威厳と、数え切れぬほどの戦場を踏み越えてきた戦士としての気配が、無理なく溶け合っていた。
「……よい」
短い一言。
だが、それだけで広間の空気が一段引き締まる。
金の瞳が、二人の王子を順に射抜いた。
「虚邪は策を弄する。力だけでも、知略だけでも届かぬ相手だ」
一拍の間を置き、レオハートははっきりと言い切る。
「ゆえに――頭脳は、アーシェス。全体の指揮と判断は、お前に任せる」
名を呼ばれた瞬間、アーシェスの背筋がわずかに伸びた。
否定も、逡巡もない。彼は即座に応じる。
「……御意」
低く、揺れのない声。
それは命令を受ける声であり、同時に、すべてを背負う責務を引き受けた者の覚悟の響きだった。
レオハートは続けて、もう一人へと視線を移す。
「そして――現場は、ガルディウス」
その名が告げられた瞬間、ガルディウスの口元が獣じみた笑みに歪む。
「……っは。前線、だな?」
「そうだ」
レオハートは一切の冗談を交えず、きっぱりと告げた。
「最も危険で、最も泥臭い場所だ。虚邪の牙を引き受け、道を切り拓け」
「望むところだ」
ガルディウスは拳を鳴らし、楽しげですらある声音で応じる。
「考えるのは兄貴に任せる。オレは――殴るべきものを、全部殴る」
その言葉に、アーシェスはちらりと弟を見た。
冷たい視線。だが、そこに拒絶はない。
「……無茶はするな」
「兄貴もな」
短い言葉の応酬。
多くを語る必要はなかった。それだけで、互いの役割と信頼は十分に通じていた。




