第57話 星雫の聖女と、氷の王子、王たちの動かせぬ覚悟
白い光が、音もなく静まっていく。
その余韻が消えきるのを待つように、大聖女はそっと星杖を下ろした。
床に触れた先端が、かすかに澄んだ音を立てる。
「……さて」
柔らかく、しかし場を逃がさぬ声。
「ユズハが《星雫の聖女》として定められた今――同時に、もう一つの“急務”を明らかにせねばなりません」
空気が、ぴんと張り詰めた。
王族、重鎮、将たちの視線が、自然と彼女へ集まる。
「虚邪の穢れに囚われし者。土の大地母神に仕える、聖女候補――ミレフィーオ」
その名が落とされた瞬間。
レオハート王の眉が、深く、静かに寄った。
しかし、その奥で輝く金の瞳は――怒りではなく、燃えるような覚悟を宿している。
「彼女は今、王国の正規の探索網では辿りつけぬ場所にあります」
大聖女の声が、わずかに低く沈む。
「虚邪の穢れは、もはや自然発生の災厄ではありません。――誰かが“意味を与え”、彼女を“鍵”として扱っている」
その一言で、空気が張りつめた。
「穢れの濃度、結界の歪み、聖女候補の選定……いずれも偶然ではなく、古き信仰を歪めた者たちの手順が見え隠れしています」
星杖の先で、淡い光が不規則に揺らぐ。
「下手に大軍を動かせば、彼らは即座に気づくでしょう。穢れは身を隠し、舞台を変え、最悪の場合――」
一拍、沈黙。
「聖女候補という“器”そのものが、目覚める前の“何か”の糧として、闇に呑まれる」
それは敵の名を知らされぬまま、“明確な悪意と計画”の存在だけを突きつけられた瞬間だった。
ざわめきが走る。
レオハートは拳を、静かに、しかし強く握り締めた。
「……余が動けば、すべてが露見する、ということか」
「はい」
大聖女は迷いなく頷く。
「王が動けば、世界が動いたと知れ渡る。それは虚邪にとっても、望まぬ刺激となります」
わずかな沈黙。
「――ゆえに」
星杖が、再び淡く輝いた。
「必要なのは、“王ではない者”。それでいて、王と同じだけの覚悟と力を持つ者たち」
レオハートの瞳が、わずかに細まる。
遠い記憶。
剣と血と誓いを共にした、あの時代。
「かつて世界の裏側を歩き、名を捨て、役目を終えた者たち……」
大聖女の声は、あくまで静かだった。
「彼らならば、虚邪は“過去の亡霊”と見なすでしょう。だからこそ――気づかぬ」
星の残光が、ゆっくりと消えていく。
「ミレフィーオを取り戻す鍵は、王の玉座ではなく――かつて共に戦った“絆”の中にあります」
レオハートは、深く息を吐いた。
その表情は、王としてのそれではない。
一人の男として、かつて剣を振るった冒険者の顔だった。
「……なるほどな」
低く、噛み締めるような声。
「歯がゆいが……理にかなっている」
拳を開き、ゆっくりと膝の上に置く。
(動けぬなら……動ける者に託すしか、ない)
その胸の奥で、すでに“呼ぶべき者たちが、静かに蘇り始めていた。
「レオハート陛下……」
大聖女は声を強めることなく、ただ深く、穏やかに名を呼んだ。
その響きに、王は短く息を吐き、わずかに視線を逸らす。
「……わかっておる」
低く、噛みしめるような声。
「わかっておるが……あの娘を、失うわけにはいかぬ。大地母神の加護は――今の世界にこそ、必要なのだ」
それは王としての声明ではなかった。
戦場を知る者が、力の均衡を肌で理解しているがゆえの、率直な本音。
その隣で。
第一王子アーシェスは、静かに目を伏せていた。
整えられた金の髪は肩口で束ねられ、白の軍装に走る淡い青の刺繍が、動かぬ彼の姿を凛と縁取る。
立ち姿は完璧だった。
揺らぎのない背筋、無駄のない呼吸――王位継承者として非の打ちどころがない。
だが、その閉じた双眸の奥には、氷を思わせる硬質な光が沈んでいる。
ゆっくりと息を整え、彼は口を開いた。
「……イルヴァからの感応は、依然として途絶えたままです」
低く抑えられた声は、感情を削ぎ落とした報告そのものだった。
位置反応も、断片的な生命波動も返ってこない――応答なし。
ただ事実だけを並べ、そこに評価も希望も混ぜない。その語り口は、王子として政務と戦略を預かる者の冷静さを如実に示している。
彼の肩元には、淡い金色の紋様が静かに漂っていた。
小型聖獣と主を結ぶ“呼応紋”。本来ならば、主の意識に呼応して脈動し、微かな感情や位置の兆しを返すはずのものだ。しかし今は、凍りついた水面のように沈黙し、外界からの刺激を一切拒んでいるかのようだった。
アーシェスは、その紋様を一瞥すると、ほんのわずかに目を細めた。
声にも、表情にも、焦りは出さない。王族として、そして実務を担う王子として、感情を表に出すことは許されない――それは彼自身が最もよく理解している規律だった。
だが、その内側では、確かな圧が静かに積み重なっていた。
焦燥。怒り。
そして、聖獣を失うかもしれないという、“王子”ではなく“聖獣に選ばれ、契約を背負う者”としての痛み。
それらは氷壁の奥に封じ込められ、外へ漏れ出ることなく、ただ静かに温度を上げていく。
「……生きている限り、紋は消えない」
誰に向けたとも知れぬ低い呟き。
それは祈りでも、命令でもなかった。ただ、これまでの経験と理に基づく、冷徹なまでの事実確認だった。
「だから――必ず、生きて戻れ。イルヴァ」
声は静かで、揺らぎがない。
指先に、わずかに力が込められる。その感触は、剣の柄を握るときと同じ、無駄のない緊張だった。
氷は、ひび割れない。
だがその内側で、確かに炎が燃えている。
――必ず見つける。
聖女候補も、聖獣も。
そして、虚邪の奥に隠れた“答え”も。
その沈黙こそが、氷の王子アーシェスの覚悟だった。




