第54話 秘された真名に触れる者、星が許した唯一の隣は光が静かに満ちていく
大聖女は静かに杖を掲げた。
星紋が応えるように光を放ち、銀砂のような粒子がゆっくりと空間を舞う。
「――ユズハ。星の聖女として歩む者には、その魂に刻まれる“真なる名”が必要です」
その声は優しいのに、空気の奥で何かが深く震えた。
「真なる名とは、星があなたを識るための鍵であり……“闇”と対峙するとき、魂を守る護りでもあります」
大聖女はユズハの前に歩み寄り、杖先をそっと額へ向ける。
触れずに、光だけがそっと触れた。
「ユズハ。感じなさい。……この名は、あなたにだけ届くものです」
次の瞬間――
光の奥から直接、心へ声が落ちてきた。
(………)
ユズハの瞳がかすかに揺れる。
だがその“名”は、彼女以外の誰にも届いていなかった。
ルシエルでさえ、光の揺らぎを感じただけで言葉は聞こえない。
大聖女は静かに続けた。
「真なる名は、神獣アンバリーフとあなたの魂に刻まれたものと同じ“秘される名”。決して他者に明かしてはなりません」
その声は穏やかだが、絶対の戒めだった。
「もし――よからぬものにその名が知られれば、魂の座を奪われる危険すらある。虚邪は“名を奪う者”。ゆえに、真なる名は秘匿されねばならないのです」
ユズハは胸に手を当て、真名の余韻を抱きしめる。
大聖女は杖先にもうひとつ光を灯す。
「しかし、公に示す名は必要です。それが――あなたの通称となります」
星光が円を描き、ユズハの足元に降り立つ。
「あなたの通称は――《星雫のユズハ・スターリィティア》」
その響きとともに、大聖堂の空気が静かに変わった。
世界がユズハを“星導”として認めたかのようだった。
「真なる名はあなたの魂だけが知ればよい。通称は、世界があなたを識るための“表の名”」
ユズハの胸の奥では三つの光が柔らかく脈動する。
アンバリーフの息吹。
星のきらめき。
模型神の小さな律動。
それらが、ひとつの運命として結びつき始めていた。
大聖女の声は柔らかいのに、空気が震えた。
世界の真理が、ほんの少しだけ顔をのぞかせるような感覚。
「星雫の聖女、そして星導――道を導く者。その名は、やがて“闇の源流”に触れたとき、必ず力となるでしょう」
柚葉は静かに問いかける。
「闇の源流……虚邪、ですか……?」
一拍の沈黙。
危険な真実へ踏み込む前のためらい。
「虚邪とは、単なる怪異ではありません。世界の外縁に触れ、星に選ばれなかった“無名のものたち”。名を持たぬため、この世界に位置づけられず――ゆえに“奪う”のです。名前を。形を。意味を。そこにあるもの全てを穢し、呑み込むことで」
その説明に、柚葉の胸にひやりとした冷気が落ちる。
その手を、ルシエルがそっと取った。
「恐れなくていいよ、ユズハ。……ボクがいる。星も、神獣も、きみの光を支えてくれる」
その声が触れた瞬間、胸の緊張がふっとほどけた。
大聖女は、ふたりの絆を確かめるように頷き、祈りを捧げる。
「――星雫のユズハ・スターリィティア。その名は、あなたが虚邪の核心へ至る道を照らすでしょう」
ユズハの胸に刻まれた真なる名の光が落ち着き始めた、その瞬間――。
ふっ……と、空気が震えた。
大聖堂の中心部に、金の粒子がひとつ、またひとつと生まれる。
それは風に揺らぐ祈り火のように揺れ、ゆっくりと形を帯びていった。
大聖女がそっと目を見張る。
「……これは。慈光院に留まっているはずの神獣が……」
粒子が集まり――小さな獣の姿へと結ばれていく。
アンバーリーフの“魂の光姿”だった。
ユズハが息を呑む。
「リーフ……!」
それは実体ではなく、遠く離れた本体が“魂の通路”を通して投影した光。
淡い輪郭はゆらぎ、床に影は落とさない。
けれど瞳だけは、いつもの琥珀のように深く、温かくユズハを見つめていた。
魂のリーフは音もなく近づく。
そして――ユズハとルシエルの胸元、真なる名が刻まれた“魂の中庭”へそっと鼻先を寄せた。
触れていないのに、胸の奥を優しく抱かれたような温かさが走る。
大聖女が静かに言う。
「真なる名によって結ばれた魂同士が強く反応しています。“魂の来訪”――神獣のみが行える、極めて希有な現象です」
リーフの光がふわりと揺れ、こう告げるようだった。
『ちゃんと……三人を見守ってるよ』
ユズハの瞳が潤む。
その横で――ルシエルはしばらく言葉を失っていた。
青い瞳に映るのは、ユズハと魂のリーフ。
そして、自分の胸の奥にもわずかに灯る“同じ光”。
「……やっぱり。ボクも……ユズハの“真名の響き”に触れているんだね」
ユズハが驚いて振り向く。
ルシエルは静かに微笑む。
その表情は優しいのに、どこか切なさがにじんでいた。
「聞き取れたわけじゃない。でも……“意味”が、魂の奥でかすかに震えた。あのときリーフがくれたもの……ユズハと同じ“魂の糸”を、ボクにも結んでくれたんだ」
まるでそれを肯定するように、リーフはルシエルの胸元にも尾の光をふわりと触れさせた。
大聖女が息を呑む。
「神獣が……二人の魂を対等に“結び合わせている”……? なんという……前例がありません……!」
ルシエルは軽く肩を震わせ、こぼれる声で言う。
「……そんな顔で寄り添われたら……離れられないよ、君たち二人には」
魂のリーフがそっと寄り添い――ユズハ、ルシエル、そして神獣の三つの光が重なり合う。
その中央で、リーフの尾が星のように瞬いた。
ユズハの手をルシエルがそっと握る。
「真名を言葉にできなくても……魂が触れられただけで十分だよ。ボクは、君の隣で“この糸”を守る力になる」
リーフがそれに応えるように、柔らかい光を二人へ広げる。
大聖女は目を閉じ、祈りを捧げた。
「――三つの光を分かち合う者たちよ。星を導く魂よ。どうか、深い闇を越えんことを……」
魂のアンバーリーフは、その祈りを受け取るように一度だけユズハへ頬を寄せ――
次にルシエルへも同じ仕草をやさしく触れさせた。
その後、光の粒子となって静かに消えていく。
慈光院へと帰る、“三つの魂を結ぶ光路”を残しながら。




