第50話 白月の大聖女が呼ぶ時、秘密を抱いたままの私を王子の手はそれでも離さなかった
都の中心へ向かう馬車は、朝の光を静かにすくい上げながら進んでいた。
天蓋からこぼれる薄金の光が、ふたりの影を柔らかに重ねる。
柚葉は外の景色をぼんやり見つめながら、小さく息をついた。
向かう先は――王国の頂に立つ大神殿。
〈白月の大聖女〉リディアーヌ・ルミナリア本人からの“召喚”が待っている。
(……あたしなんかが、こんな場所に? いや、それより……)
胸の奥で、言葉にできない痛みがじんわり広がる。
ルシエルの実年齢――十七歳。
あの日の衝撃は、今も心に残っていた。
(本当は……あたし、二十三歳なのに)
正直に言えない自分が、あまりに情けなくて。
でも一度飲み込んでしまった言葉は、喉の奥でずっと刺さりつづけている。
そんなとき――隣に座るルシエルが迷いなく柚葉の手を包み、その温度が雑念をすべて溶かしてしまう。
「大丈夫だよ、ユズハ。大神殿がどんな場所でも……君はボクが守る。君だけに、重いものを背負わせたくないんだ」
優しい声。
まるで、成人になっていない少女を気遣うかのような、過剰なほどの庇護。
――胸が締めつけられた。
(……ごめん。幼いどころか、あなたより年上なのに)
指先がわずかに震える。
けれどその震えを、ルシエルは“怯え”と勘違いして、さらに手を包み込む力を強めてしまう。
「ほら……そんなふうに震えなくていいんだ。ボクがついている。どんなことでも君を守る」
(言えない……こんなに真っ直ぐ心配してくれるのに……)
その想いは、柚葉の胸に甘く痛い重さを落としていく。
ルシエルは柚葉へ向き直り、真剣な眼差しを注いだ。
少女と思い込んでいる相手へ向けるには、あまりに深くて大人びた恋情。
「ユズハの人生は……ボクが守る。たとえ、世界を敵に回しても」
その言葉が落ちるたび、柚葉の心に波紋が広がる。
言いたい。
本当はあなたより年上だと、ちゃんと話したい。
けれど――
(……こんな眼で見つめられたら……言えるわけ、ないよ……)
馬車は静かに揺れながら光の道を進んでいく。
彼の指は強く、彼女の指はそっと包む。
触れ合った温もりだけが、二人の沈黙をやわらかくつないでいた。
「ねぇルシエル。アーシェス殿下って……すごく大人びて見えるけど、ルシエルと歳ってだいぶ離れてるの?」
沈黙につい聞いてしまった柚葉の問いに、ルシエルは静かに瞬きをした。
淡い金のまつ毛が、光を受けて柔らかく揺れる。
「……そう感じるのも無理はないね。けれど、兄上は今年で二十一だよ」
「………………え?」
柚葉の心臓が一瞬止まった。
息がどこかへ逃げ、視界がふわっと遠のく。
(に、にじゅういち……!? あの『王の風格の塊』が……!? 私より……年下……?)
その衝撃が過負荷となり、柚葉の表情から色がすっと抜けていく。
ルシエルはそっと身を寄せ、落ちていく柚葉の意識を支えるように小声で囁いた。
「ユズハ、大丈夫……? あまり驚かせてしまったかな」
「だ、だいじょぶ……ただ……精神が……旅に出てただけ……」
ようやく呼吸を取り戻した柚葉は、震える声で続けた。
「じゃ……じゃあ……ガルディウス兄さんは……」
ルシエルは困ったように微笑む。
優しさと、少しの諦めをにじませて。
「――十九歳、だよ」
「………………あっ……」
柚葉はもう一度ふらりと倒れかけ、魂が肩のあたりまで抜けかけた。
(じゅっ、十九!? あの威圧感と眼光の鋭さで!? もはや“歴戦の将軍”じゃなくて、まだ……十九!?)
ルシエルはそっと柚葉の手を包みこんだ。
その仕草はひどく自然で、ひどく優しい。
「……ユズハ、戻っておいで。君が消えてしまいそうだ」
その低い声に引き戻されるように、柚葉の魂がふわりと体に戻る。
「……はっ……戻った……。うぅ……常識が……折れた……」
ルシエルは微笑む。
どこか申し訳なさそうに、けれど温かく。
「兄上たちは……責務が多い分、早く成熟して見えるんだろうね。けれど年齢そのものは、ただの青年だよ……だから、あまり怖がらなくていい」
その声音は、いつもの彼と同じだった。
――柔らかく、包み込むように優しくて。
「大丈夫だよ、ユズハ。どんなに場が厳しくても……君はボクが守る。年端もいかない君に、重いものを背負わせるつもりはないから」
その言葉に、柚葉の胸の奥がきゅっと熱くなった。
(……やっぱりこの王子、ずるい……。)
そんな“王子”が、今はただ一人――柚葉だけを見ている。
その眼差しは、他の誰にも向けたことのないほど静かで、優しくて、深い。
「ユズハを守るためなら、ボクは何だってするよ」
告げられた言葉は、騎士の誓いよりもずっと私的で、胸の奥をそっと撫でるような温度を帯びていた。それは、彼がどれほど彼女を大切に思っているかを雄弁に物語っていた。
(……そんなふうに見ないで。心が……揺れる……)
胸の奥が温かく満たされる。
けれどその温もりに触れたことで、かすかな不安がまた浮かび上がる。
「……でも。慈光院の子どもたち、大丈夫かな……?」
昨日の森で感じた〈虚邪〉の影は、小さな棘のように心に残っていた。
ルシエルは柚葉を安心させるように、静かに首を振る。
光をもとらえる美貌が、穏やかに緩んだ。
「心配いらないよ。ニャルディアもブレンナもいるし、近衛騎士団も配置済みだ。それに……アンバリーフも慈光院を離れなかった。“君のために”と言うようにね」
最後の言葉を少しだけ柔らかく落とす。
まるで、柚葉と彼、そしてその両者を結ぶ神獣の想いが重なり合い、誰にも切り離せない絆となって彼らを包んでいるかのように。
柚葉は頼れる三人と一匹の姿が脳裏に浮かび、胸の緊張がほどけていく。
「……そう、だよね。みんな、きっと……大丈夫」
柚葉の小さな声を、ルシエルは深い安堵で受け止めた。
そして、ほんの少しだけ視線を遠くに向ける。
王族としての“深層”の思考が、そのまま口調に滲む。
「それにね……ユズハ」
光を宿した青い瞳が、静かに柚葉へ戻る。
「父上も兄上たちも、〈虚邪〉に関してはとても敏い。――あの異変には、当然のように気づいているよ」
それは断言。
王家に生まれた者としての確信と、柚葉を不安にさせたくない“想い”が重なった声音だった。
「父上のことだから……もう“あの人たち”にも連絡を取っているはずだ。王城の誰もが知らない、特別な協力者たち――影が揺らげば、必ず動く」
柚葉は思わず息を呑む。
(“あの人たち”……?)
ルシエルは、すぐにはその意味を明かさない。
ただ、そっと柚葉の肩へ手を添え、穏やかに微笑んだ。
「大丈夫。慈光院は守られている。君がここにいるからこそ、王国全体が本気で動くんだ」
囁くようなその声に、王族としての誇りと、ひとりの青年としての“想い”が交じっていた。
そして――彼女の指を、今度はほんのわずかに、恋い慕うような仕草で握り直す。
「うん。だから今だけは、君自身のことを考えて。これから会うのは、王国でただ一人の“大聖女”。彼女がユズハを呼んだ理由は……きっと、君の未来に触れるものだ」
彼の声は落ち着いているのに、柚葉のためだけに柔らかく灯された光のようだった。
馬車がゆっくりと速度を落とす。
足元で揺れる朝の光が、二人の影を静かに重ねる。
窓の外――純白の大神殿が姿を現した。
金の星紋が朝日に反射し、淡い光を揺らめかせている。
どくん、と胸が高鳴る。
不安と期待と、そして横にいる彼の手の温度。
柚葉がそっと握り返すと、ルシエルの睫毛が微かに震え、静かにまばたきを落とした。
――まるで、触れられたその瞬間、息を奪われたように。




