第48話 神獣が選んだ二人だけの秘密に王子の心は焼き切れ寸前
アンバーリーフが二人の足もとに、とてとて歩いてきて、ちんまりと座った。
祝福の儀が終わり、森の空気にはまだ神気の残り香が漂っていた。
子どもたちもシスターたちも、ニャルディアもブレンナも、ひとまず安堵の笑顔を見せている。
だがその場の中央、ルシエルと柚葉の前に座ったアンバーリーフは、ふっと小さく尾を揺らした。
――次の瞬間。
音もなく、柚葉とルシエルの胸の奥にだけ柔らかな“意味”が落ちてきた。
言語ではない。
光でも声でもない。
ただ、心にだけ直接そっと触れてくる“真なる名”。
柚葉が息を飲む。
ルシエルが震えるように目を見開く。
アンバーリーフは、二人だけを静かに見上げていた。
まるで――“この名は、あなたたちにだけ預ける”と告げるように。
周囲は誰ひとり、異変に気づいていない。
ニャルディアはあくびをし、ブレンナはドワーフ式の祝詞をぶつぶつ唱え、子どもたちはしっぽを触りたいと大騒ぎしていた。
だが二人の胸の内には、確かな神秘が刻まれていた。
柚葉は小さく唇を震わせる。
「……い、今の……」
ルシエルがそっと彼女に顔を寄せる。
そして、声ではなく口の動きだけでたった一度、その名を“形”にした。
その響きは、森の精霊たちでさえ息を呑むほどの神聖なもので――だが、音として発されていないため、誰にも届かない。
柚葉だけが、確かに“理解”した。
二人は同時に悟る。
これは……二人だけが共有する“秘密の名”だ。
柚葉は胸にアンバーリーフを抱き寄せ、「大切にするよ……絶対に」と囁いた。
アンバーリーフは満足げに目を細め、その尾が二人を包み込むように揺れた。
ルシエルは横で、胸の奥を押さえながら小さく息をつく。
「……こんなの……ますます……離れられなくなるよ……ユズハ」
柚葉は意味が分からず首を傾げるが、ルシエルはそれ以上言わず、ただ柔らかく微笑んだ。
こうして――
アンバーリーフの“真なる名”は、柚葉とルシエルだけが知るたったひとつの秘密となった。
その瞬間、三つの心は静かに結ばれ、森に澄んだ光が落ちていった。
――ああ、ダメだ。本当にダメだ……。
なんで、そんな顔で笑うんだ、ユズハ。
アンバーリーフの真なる名――誰にも届かない、声にもならない神の印。
あれを“二人だけで”共有した瞬間、胸の奥で、何かが静かに焼き切れた。
なのに彼女は、何も知らないみたいに、ただ優しく、腕の中で甘えてくるアンバーリーフを抱きながら、完全に母親ムーブを発揮している。
「よしよし……痛くない? もう怖くないからね。大丈夫だよ……」
指先で耳をそっと撫で、胸元に抱き寄せ、優しい声で包み込む。
アンバーリーフは、喉の奥でとろけるような音を出してくつろいでいる。
「……っ、柚葉……そ、その……だ、抱き寄せ方……や、やさしすぎじゃ、ない……?」
「え? だってケガしてたし……怖かったと思うし……」
悪気ゼロ。
恋愛自覚ゼロ。
けれど、母性だけがカンスト。
……そんな仕草を見せられて、どう平静でいられるっていうんだ。
神獣がくれた「秘密」は、本来なら恐れ多いもののはずなのに。
なのに今、ボクの心を満たしているのは畏怖じゃない。
もっと近くにいたい。
もっと……知りたい。
もっと触れたい。
そんな欲ばかりだ。
ユズハの肩にかかる黒髪が、風に揺れて頬をかすめたら、それだけで心臓が跳ねる。
……危ない。
こんな感情、制御できなくなる。
「大切にするよ……絶対に」
そう言ったユズハの声が、耳の奥で何度も反響する。
たったそれだけの言葉で、どうしてこんなに胸が締めつけられるんだ。
ボクたちだけの秘密。
誰にも触れられない名。
世界にふたりしか知らない絆。
……もう無理だ。これ以上、距離なんて置けない。
ユズハがアンバーリーフの頭を撫でて、ふっと微笑んだ瞬間、息をするのさえ苦しくなる。
――どこまで惹かれれば気が済むんだ、ボクは。
こんなにも、簡単に心を奪われて。
母上の亡骸を奪われても揺らがなかった心が、戦場ですら凍ったままだった感情が、今はただ一人の少女に向かって溶け続けている。
……怖い。
けど、この感情だけは手放せない。
たぶんボクはもう、戻れない。あの日の自分にも、戦場の自分にも、“孤独”だけを抱えていた自分にも。
ユズハがいる世界じゃないと、もう息ができそうにない。
アンバーリーフ。
お前が選んでくれたこの秘密、絶対に裏切らない。
ユズハの隣にいる資格を――何があっても、ボクは掴み取る。




