第4話 絶望の炎の中で、彼女は騎士の背に心を託す~始まりの戦場と運命の恋譚~
翌朝。
空は澄みわたり、深い青に薄金の光が溶けていく。
森の梢にこぼれた陽光はまるで聖紋のように枝葉を縁取り、馬車の影を柔らかく伸ばしていた。
街道を進む馬車は、木枠がわずかにきしむたび、内部の空気がほのかに震える。
(……この共鳴、絶妙すぎる……。スポークの角度と荷重の逃がし方……計算して作ってる……)
異世界に来ても、細部を見る癖だけは変わらない。けれどその視線の奥には、まだ消えない不安が揺れていた。
(昨日のこと……全部、夢だったって言われたら信じちゃうくらい……)
胸の奥がきゅっと縮む。
それでも朝の風は優しく、どこか背中を押すように馬車の帆布を揺らしていく。
――ふ、と。
「あれ……煙?」
唐突に、馬車の窓から見えた一筋の灰色。最初は細い帯だったそれが、見る間に濃く、黒く、空を汚していく。
焦げた匂いが、風の流れに乗って届いた。
「ルシエル様、あれ……!」
彼の瞳が鋭く細められる。
「どうやら村が――なにかに襲われているみたいだ」
命令が飛ぶと同時に、騎士たちが馬を走らせる。
馬車の車輪がきしみ、砂のほこりが舞った。
丘を越えた先に広がる惨状。
炎に呑まれた集落が、まるで赤黒い地獄のように揺れていた。
粗末な屋根が崩れ、焦げた木材がぱきぱきと悲鳴をあげ、それをかき消すように獣じみた咆哮が空気を震わせる。
村の中央で、ひときわ巨大な影が暴れていた。
「……オークジェネラル……!」
騎士は青ざめ、声を震わせた。
「……なんで、こんな化け物が……ッ」
ただの強敵ではない。
遭遇しただけで部隊が壊滅すると言われる“災害級”だ。
普通のオークの倍ほどの巨体は、筋肉ではなく“異様な膨張”によって膨れあがったように歪み、皮膚は灰緑から黒ずんだ紫へと変色し、裂け目のようなひびからは――黒い霧が、絶え間なくにじみ出ていた。
その黒は煙というより、呪詛が生き物になりかけているような歪なもの。炎の光を吸い、空間を汚し、触れた空気さえ腐らせる。
棍棒は鉄塊。
しかし鉄の質感は既に失われ、どろりと歪んだ黒鉄の瘴気を滴らせていた。打ち付けられた大地は、焦げたように黒ずみを残している。
(絶対に鍛冶で作った重さじゃない……え、物理的に破綻してない……?)
目を疑うような異様な存在感に、自然と息がつまる。
そして、その眼――
血走った赤ではなく、“深い闇の底にわずかな焔だけが灯った”ような、凶悪な光。理性の欠片も見えないのに、憎悪だけが明確にこちらへ向いている。
その背後には十体ほどのオーク。
彼らでさえ、主に引きずられるように黒い汚濁をまとい、村人を壁へ追い詰めていた。
「脅威度Bランクか……いや、これは実質Aランク寄りだ。王都の名のある冒険者でもパーティーを組まないと手こずりそうな相手だ」
「なっ……そんな高ランクが、この地域に出るはずが……!」
騎士が悲鳴じみた声をあげるのを、ルシエルは瞬時に状況で切り捨てるように分析した。
「群れの主争いに敗れて、流れてきた手負いだろう――だが、問題はそこじゃない」
彼の視線は、オークジェネラルの全身を覆う“黒い揺らぎ”に釘付けになる。
「……あれは、虚邪に“食われかけている”」
ひと言で、騎士たちの顔色が変わった。
「手負い、それに虚邪汚染……!? そ、それって最悪の組み合わせではっ……!」
「通常の個体より凶暴で、痛覚も薄い。理性が飛んでいる分、力も歯止めが効かない」
ルシエルの声は低く冷え、判断は容赦がなかった。
(しかもあの濃度……“見るだけで気分が悪くなる”ほどの穢れだ)
自然界ではあり得ない、“暴走した死”そのもの。
ただ姿を目にするだけで、心臓を握り潰されるような圧力だった。
逃げまどう村人たちの叫びが風に千切れて飛ぶ。母親が幼い子を抱きしめ、炎の前で立ちすくむ姿が見え――胸がきゅっと縮まった。
ルシエルは馬を止め、こちらを振り返る。
「ユズハは馬車の中から出ないこと。絶対にだ」
「でも……!」
その時――
耳を裂く咆哮。
風圧で馬車の布がバサッと揺れ、思わず座席にしがみつく。
「大丈夫。ボクが必ず倒す。だから安心していて」
それだけ言うと、ルシエルの金の髪が陽光を弾いた。
鞘から抜かれた剣が、まるで光を裂く風となって――彼は燃える村へと駆け出した。
「全員、構え! 村人の救助を最優先する!」
騎士たちが一斉に馬を走らせ、銀鎧が炎の色を反射して煌めく。
剣が閃くたび、オークたちが黒い汚濁の霧を散らして倒れていった。
だが次の瞬間――
戦場の空気そのものが“沈んだ”。
オークジェネラルが棍棒を高く振り上げたのだ。
その軌道は巨大で雑なのに、逃げ場を与えない。
振り下ろされるたび、地面は爆ぜ、衝撃が空気を押し潰し、黒い霧と炎が渦を巻き、視界を歪める。
それはもう、ただの怪物ではなかった。
――瘴気そのものが、暴力の形をとった存在。
模型では再現できない、本物の“質量を持つ悪意”がそこにいた。
「うっ……このっ!」
ルシエルが盾を掲げ、オークジェネラルの棍棒を真正面から受け止めた。
瞬間――
重金属が世界そのものを叩いたような轟音が、大気を震わせる。
衝撃波が炎と煙を押しのけ、騎士たちが数名、弾け飛ぶように倒れ込んだ。
馬が悲鳴をあげ、ガレキが火の粉を散らしながら転がる。
炎に舐められた屋根が、ぱきんと音を立てて崩落した。
「おじいちゃん! だれか――助けて!」
その声が、柚葉の胸を鋭く引き裂いた
炎と煙の向こう――
倒れた家屋の影で、小さな身体が、身を伏せた老人を必死にかばって震えている。
「……っ!」
ルシエルはためらわず踏み込んだ。
炎の粉塵を舞い上げながら、光をまとった剣を低く構える。
ジェネラルの棍棒が再び振り上げられ、黒い霧が炎に混じって渦を巻く――それでも彼は止まらない。
「下がれ! 早く逃げるんだ!」
「だ……だめですっ! ルシエル様、それ以上は危ない――!」
柚葉は、気づけば馬車の扉に手をかけていた。
身体が勝手に前へかたむく。
喉の奥に溜まる焦燥と恐怖がいっそ悲鳴になりそうで。
(やめて……そんな無茶したら――!)
オークジェネラルの棍棒が振り下ろされる。
空気が震え、炎の色が一瞬、白く弾けた。
その爆ぜる気流が柚葉の頬をきる。
喉が凍りつく。
――なのにルシエルは、微かに笑った。
光をまとった剣が弧を描き、爆炎の中心へと、まるで風の精霊が駆け抜けるように飛び込んでいった。




