第44話 料理が魔法になった瞬間、子供たちは笑顔で満たされ、王子のハートは射抜かれる
――香りが立った。
ぐつぐつと煮立つ鍋から漂うのは、野菜の甘みとほのかなスパイスの香り。
たっぷりとは言えない材料。香辛料も数種類しかない。
だが、柚葉の指先から織り成される魔法のような手際は、見ている者すべてを引き込む力を持っていた。
(にんじんの甘みを引き立てるなら……こっちを一つまみ)
ぱらり、と黄色い香辛料を落とす。玉ねぎもじっくり煮込み、子供の舌にも優しく――
パン、と手を打ち、満足そうに微笑む。
「……よし! なんとか形になった!」
大きな釜にたっぷりの野菜スープ。
じゃがいも、人参、玉ねぎ、少量の肉。
日本で言う“ポトフ”。
「す、すっごい……香り……」
シスターが思わず目を見張る。子供たちも湯気に惹かれ、鼻をひくひくさせる。
「お腹すいたぁぁぁ……!」
「ゆ、ユズねえちゃん、料理の……神じゃん……」
「姫さまなのに料理もできて、すごい!」
「なんで食堂の空気だけで幸せレベル上がってるにゃ……」
ニャルディアが鼻をくすぐる香りに目を細め、ブレンナはもう涎を垂らす勢いで鍋に迫る。
「い、いただくぜェ!!」
「まだ盛り付けてないよ!!?」
――その間、柚葉は落ち着いた手つきで最後の仕上げを行い、子供たちの分を小皿に取り分ける。
その姿は、まるで陽光を背に受け、鍋の湯気が金色のオーラのように漂う異世界の聖女のようで――ルシエルは思わず息を飲んだ。
(……なんだ、この美しさは……!?)
火照る頬、少し乱れた黒髪、集中した指先。
スープを混ぜるたびに微かに揺れる黒髪の房と、淡い光をはらんだ瞳。
――気づけば、心臓がぎゅっと締め付けられるように鼓動していた。
思わず目をそらそうとしたが、視界に映るその光景から逃げられない。
「おい……しい……!」
最初のスプーンを口にした瞬間、子供たちの目がきらきらと輝く。
「なんだこれ!? ただの野菜スープじゃない!」
「舌が……幸せになる味……!」
「にんじんって……こんな甘かったの……?」
シスターもスープを口に含むと、そっと目を伏せる。
「……身体に……しみ渡ります……」
少ない食材でも、ただの煮込みでも、工夫と想いが込められれば、立派な“ごちそう”になる。
(よかった……ちゃんとできた……!)
黒髪を軽く揺らし、黒の蝶がひらりと舞い、星銀の微光を散らす。
ニャルディアは尻尾をぴんと立て、
「こ、この黄金比率……! 塩と野菜の甘さのバランス……天才にゃ……!」
ブレンナはスプーンを止めず、
「なぁ!? うめぇ!! なんだこれ!? 野菜だけでこんな威力あんのか!!?」
「食べながら喋らない!!」
三人がかしましく騒ぐ横で――ルシエルは静かにスープを口へ運び、ひと呼吸、目を閉じた。
そして、静かな声で言う。
「……これは罪だね」
「は、はい!? ななな、何した、あたし!!?」
慌てる柚葉に、ルシエルは平然と、しかし胸の奥から熱を帯びたまなざしを向ける。
「この味を知ってしまったら、ボクはもう……ダメだ。君のいない昼なんて、考えるだけで苦しくなる」
その言葉の余韻に、孤児院の空気までが、ふわりと甘く包まれるようだった。
「ねぇユズハ。ボクをこんなに夢中にさせて……本当にどうするつもり?」
――ど、どくん。
子供たちも、ニャルディアも、ブレンナも、シスターも、一斉に真っ赤になった。
「おひょほほほほほほ!? な、なんかプロポーズみたいなこと言った!? 言ったよね、いま!?」
「落ち着いてユズハ。ボクはただ真実を述べただけだよ」
淡々と、しかしどこまでも爽やかに甘い。
人は時に、光に出会ってしまう。君がこの慈光院にもたらした味と笑顔は、紛れもなく光だ――と。
「ひいいいいいいいか!!!……り!!?」
「甘すぎだにゃ!!」
「破壊力あるんだよォ! 王子様ァ!!」
シスターまでも耳まで赤くして震える。
柚葉は顔を覆い、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
(めっちゃ落ち着いて言うから余計ささるぅぅ!!)
そんな空気の中――ブレンナがスプーンを置き、肩を揺らし、腹を抱えて笑った。
「ははっ……! こんだけ甘ぇ雰囲気になったら――」
ぐいっと立ち上がり、どんと胸を張る。
「スイーツいらねェな!!」
「だから最後に全部持ってくのやめて!?」
笑い声と湯気が満ちる慈光院。
大きな宴でも、贅沢な宮廷料理でもない。
けれど――今日の昼ご飯は、世界で一番、みんなを幸せにしていた。
昼食の余韻は、まだ空気の中にふんわりと漂っていた。
子供たちは満腹になった頬を擦りながら、ぐるりと広い食堂を駆け回る。
「ねえ、もう一回滑り台行こうよ!」
「ぼくブランコのりたい!」
笑い声が、木造の梁や白い壁に柔らかく反射し、まるで光が音になったかのように心地よく響く。
柚葉は片付けを終え、膝をついて小さな皿を洗いながら、ふぅ、と深く息を吐いた。
胸の奥で、黒い加護の脈がほのかに震える。
ふわりと一羽の黒い蝶が髪の間から零れ落ち、星銀の微光を散らしながら宙を舞う。
子供の笑顔を見守るかのように、そっと空気を包み込む。
「……よかった。みんな、喜んでくれた……」
背後から、静かに足音が近づく。
ルシエルが肩に軽く影を落とし、微笑みながら立っていた。
「ユズハ……今日の君は、本当に――光だね」
その視線に、柚葉は思わず顔を赤らめる。
魔法でも料理でもない、ただ日常の中で誰かを笑顔にできる自分の力に、じんわりと満たされる。
「ふふっ……ありがとう、ルシエル」
「でも……だからってわざと怪我したらダメだからね」
ふと、シスターの優しい声が重なる。
子供たちに向かって、穏やかに、しかし確かな口調で諭す。
「みんな、ユズハさまの魔法は、怪我や痛い時のためのもの。わざと痛くしてもらうものじゃないのよ」
「はーい……ごめんなさい」
「うん、わかった!」
子供たちが頷く中、ルシエルも小さく微笑む。
その横顔に、陽光のような柔らかさと、守りたいという決意が浮かんでいた。
――慈光院の昼下がりは、静かで温かく、幻想的な時間に満ちていた。
窓から差し込む光が、木漏れ日のような温かさを食堂に運ぶ。
子供たちの笑い声、残り香の野菜スープの香り、そして少し甘い甘い王子の視線が、すべてを包む。
「ふふ……幸せだな、こういう時間」
柚葉はそっとつぶやき、手を止めて、子供たちの楽しげな声に耳を澄ませた。
ルシエルはその様子をじっと見つめ、誰にも見せない微笑を心の奥にしまい込む。
――このひとときが、どれだけ尊いかを、知っているから。
慈光院は今日も、ほんの少しの奇跡と、無垢な笑顔で光に満たされていた。




