第39話 世界が揺らぎ、結界の軋む音 その光を守ると君に誓う、王子の決意
翅が崩れながらも、ミルティナは闇の波に逆らって上昇し――かろうじて結界の外へすり抜けた。
背後で、闇が再び脈動する。
ドクン……ドクン……トクン……
その鼓動に合わせて結界が低く軋み、森が怯えるように震えた。
気配が遅れて馬車へと届く。
ルシエルは無意識に剣の柄へ手を添えていた。
(……結界が、押し潰されるように歪んだ。何かが……出ようとしている……?)
その視線が、柚葉へ。
柚葉の髪先には、まだ黒い光の粒が残っていた。
それは闇に触れかけたミルティナが、警告のように残した痕跡。
(――星降る巫女に反応した……。これは偶然では……ない)
ルシエルは、かすかに唇を結んだ。
そして遠くの森の影では――半壊した蝶の姿が、主へ報せを届けるため、必死で闇を振り払っていた。
『……届けないと……このことだけは……』
弱々しい翅が夜気に震えながら、ミルティナはなお飛び続けていた。
――かすかな震えだけが、聖堂の空気を揺らした。
大聖女リディアーヌ・ルミナリアの前に、黒藍の翅を痛めた“夢喰い蝶”ミルティナが、光の間を切り裂くようにふらりと落ちてきた。
『……戻り……ました、主……』
その声は、霊とは思えないほど弱く、頼りなかった。
リディアーヌは祈りの手をほどき、そっと跪く。
扱うのが壊れやすい宝物であるかのように、白い指先がミルティナへ触れた。
「こんな姿になるまで……よく帰ってきてくれましたね」
その声音は、深い湖の底のように静かで温かい。
だがその奥には、穢れを拒む“聖”の厳しさが一瞬だけきらりと宿る。
『……主よ……奥へ……虚邪の闇が……黒の加護の気配に、反応……っ……』
ミルティナの翅が、語るたびに淡く砕け落ちた。
リディアーヌは胸元で割れた翅を受け止め、寂しげに微笑む。
「ええ……わかっています。あれは、私たちがずっと封じ、祈りで縛り続けてきた“穢れ”の残滓……星の巫女に反応したのなら、なおさら慎重に対処しなければなりませんね」
穏やかな声のまま、しかしそこに迷いはない。
彼女にとって“虚邪の闇”は、誰かを傷つけようとする忌まわしき穢れであり、赦すべきではないもの。
ゆっくりとミルティナを抱き上げると、リディアーヌは胸の前でそっと祈りの印を組んだ。
「ミルティナ……あなたは十分に働きました。今は、私の祈りのもとで眠りなさい。傷が癒えたら、また目覚められます」
柔らかな金色の光が彼女の掌から溢れ、破れた翅も、ひび割れた身体も包み込んでいく。
その光は、暖炉の火のように優しいのに、穢れの影だけは一切寄せつけない、聖なる輝きだった。
“夢喰い蝶”ミルティナの翅が光へ溶けていく、その刹那。
リディアーヌはふと、微かな違和を覚えた。
指先に残った黒藍の欠片に、かすかに――ほんとうに微かに、別種の気配が混じっている。
「……これは……」
その囁きは、聖女の祈りよりも静かだった。
ミルティナの翅から立ちのぼる虚邪の穢れ。
その深い闇の層の、さらに奥――。
たったひとしずくの“香り”が潜んでいた。
温かく、懐かしく、祈りに似た脈動。
長い年月、絶え間なく探し続けた者でなければ、決して気づけなかったほどの、淡い残り香。
リディアーヌの呼吸が、ほんの一瞬止まった。
「……こんなところで……あなたの……“残り香”が……?」
胸に押し込めていた祈りが、ふと震える。
指が黒藍の欠片をそっと包む。
黄金の光が滲むほど強くも、しかし優しい動作で。
「千日……いえ、それ以上ですね。私はずっと……あなたの気配を探していました」
穢れに触れたせいか、彼女の白い頬にうっすらと影がさした。だがその瞳は、深い慈愛の微笑みに満ちていた。
「ようやく……ほんの“ひとかけら”だけれど。あなたの息が、確かにここに残っている」
ミルティナが祈りの眠りへ沈む前、小さく震えながら囁く。
『……主よ……その香りは……“あの方”の……』
「ええ。間違いありません。虚邪の穢れが……あなたの帰り道に付着してしまったのでしょうね。穢れは許せませんが……あなたが届けてくれたこの欠片は……私にとって、いえこの国にとっての救いです」
慈しむようにミルティナの翅へ手を添える。
「ありがとう……本当によく帰ってきてくれました。あなたのおかげで、私はまた――祈ることができます」
そして彼女は、穢れの奥から拾い上げた“残り香”をそっと胸に抱きしめた。
まるで、長く失った家族の気配を取り戻したかのような、静かな涙を湛えて。
次の瞬間、結界が遠くで軋む。
だがリディアーヌの表情は揺るがない。
むしろ、ひとつの答えを得た者のように、穏やかな決意が宿っていた。
「……あなたを穢す闇は、必ず祓いましょう。これは“聖母”としての祈りであり……私個人の誓いでもあります」
その祈りは清らかで、優しく、それでいて揺るぎなかった。
やがてすべての気配が静まり返り、ミルティナは深い眠りへ落ちていく。
リディアーヌは胸に宿した残り香の脈動を感じながら、静かに目を閉じた。
『……主の御手……あたたか……い……』
ミルティナは安心したように光へ溶け、静かに、深い眠りへと沈んでいった。
リディアーヌはそっと彼女を祭壇の傍に安置し、穏やかな目で森の方角へ視線を向けた。
「……星の巫女よ。どうか、無事で。穢れがあなたを傷つけませんように……」
その祈りは、限りなく清らかで、母の祈りのように深かった。
森の方から、結界が軋む音がかすかに響いたのは、その瞬間だった。
(――星降る巫女に“反応した”。なら、今回の揺らぎは偶然ではない)
ルシエルは微かに口角を引き結んだ。
(あの寒気のする不穏な気配……父上も兄上たちも、あの方々の情報網と配下の腕なら、とっくに察知して動きはじめているはずだ)
胸の奥で、冷たい警鐘と、どこか確信めいたざわめきが同時にふくらんでいく。
(……特に父上は、あの“母上の亡骸”を奪った影の正体を、喉から手が出るほど求めていた。あの方はずっと……ほとんど命を削るほどの執念で、その痕跡を追い続けてきた。この気配がその鍵に繋がるのなら……父上は、千日を焦がすほどの想いで、この一瞬を待っていたはずだ。そしていま……確かに何かが動き始めている)
再び、馬車の車輪が、微かにガタンと揺れる。
それに気づくこともなく、ルシエルの胸の底に沈んでいた痛みが、じわりと浮かびあがる。
(……ボクだけじゃない。父上も、兄上たちも――みんな、あの日から止まったままだ。特にアーシェス兄上は……表では長男、王を継ぐものとして完璧に振る舞いながら、誰よりも深く母上を喪った影を抱えている。そしてガルディウス兄上もまた……あの荒ぶるまでの戦への執着だって、きっと“気にしていないふり”をするための、生き方の裏返しなんだ)
ルシエルは息をのみ、胸に手を添える。
(どこまでいっても、ボクたちは……“偉大な母上”の面影から離れられない。あの微笑みも、声も、抱擁のぬくもりも――心の一番深いところに、消えずに残っている)
車窓から入ってきた風が頬をなでる。
まるで、失われた母の指先がそこにあるように。
早朝の森を進む馬車の車輪が、湿った土を静かに踏みしめる。開け放たれた窓から冷えた空気が流れ込み、草木の匂いが淡く満ちた。
ルシエルはふと隣へ視線を滑らせた。
窓辺にもたれる柚葉の黒髪が、朝の光を帯びて揺れている。
森の気配を吸いこむように呼吸を整える横顔は、静謐そのものだった。
その髪へ、ルシエルの指が“触れそうで触れない”ほど近づき――寸前で止まる。
胸の奥に、鋭い決意が冷たくきらめく。
(……柚葉は黒の加護を宿す“星降る巫女”。彼女を守ると決めた。誰からでも――たとえ、この血に連なる者たちであっても、彼女に影を落とす存在があるのなら、ボクは迷わない)
震えを悟られぬように、指先をそっと握りしめる。
(必ず守る。何者からでも。……たとえ世界そのものを敵に回すことになったとしても)
朝露を含んだ風が、二人の間を静かに通り抜けていく。
触れられなかった指先だけが、かすかな熱を宿したまま、胸の奥をそっと締めつけていた。




