第38話 祈りが森を震わせ、光の旋律が王子の心を打つ時、新たな神話を呼び覚ます
――翌朝。
大聖女の神殿召喚儀式を翌日に控えた朝、王都は淡い金色の光に包まれていた。
朝もやのかかった空は静謐で、けれどどこか聖域の空気を思わせる。
その光のなかを馬車は、静かに王都東端の街道を進んでいた。
窓の外には、淡い朝の光に包まれた《聖セラフィード大森林》が広がっている。
木々は古く、枝葉は金色の光を吸い込んだようにしっとりと輝き、風が吹くたびに微かな鈴のような音を響かせていた。
「……すごい森だね。なんか、映画のパンフレットで見た神話の舞台っぽい……」
柚葉が思わず見入ると、ルシエルは軽く笑った。
「幻想的に見えるだろう? でも、この森は浅い場所なら安全だけど――奥は違うんだ」
「奥……?」
「王都に隣接しているのに、深入りすればするほど危険が増す森だよ。結界も張られているし、兵士や冒険者も見回りはしているけど……万全とは言えない」
「え、万全じゃないの!?」
「森の奥には、古い魔術の残滓があってね。母上の時代からずっと封じてはいるけど……いつ、何が起きてもおかしくない」
ルシエルの声は淡々としていたが、その奥にある緊張は隠しきれなかった。
(ちょっ……そんなRPGみたいな仕様、リアルで聞く!? 奥にいくほど危険は完全にダンジョンのセオリーだよね!?)
そう内心でテンパる柚葉だったが、突然、胸の奥がふっと揺れた。
(……え?)
微かな鼓動。
それに呼応するように黒髪の先から、銀の星光が淡くこぼれ落ちる。
ルシエルが小さく目を見開く。
「ユズハ……!?」
星光はほどけるように柚葉の背後へと漂い、そこから黒い蝶がふわりと舞い上がる。蝶は一匹、二匹……やがて十数の影が星明りをまとうように羽ばたいた。
馬車の中に夜明けの星々のような柔らかい光が満ち、柚葉の身体をそっと包み込む。
(……この感覚、前にも――)
蝶たちは窓の外へとすり抜け、《聖セラフィード大森林》の奥へと飛んでいく。
ルシエルは、その光景をまえにして、息をするのを忘れていた。
(……まただ。彼女の力が発現するたび、空気そのものが神に近づく)
王族として数々の奇跡を見てきた。母の奇跡も、歴史に残る大魔術も、深い森が吐き出す怪物も。
だが――今、柚葉が放つ光は、そのどれとも違った。
(星の加護……いや、それだけじゃない。世界そのものが反応している)
ルシエルの胸に、恐れと、畏敬と、そしてどうしようもなく、胸の奥で柚葉への想いが燃え上がっていた。
(......こんな光を隣で浴びられる自分は……幸せすぎるのではないか)
柚葉には聞かせられない惚気かもしれない。
だが王子としての本音は冷静だった。
(……この力が、反応したということは、森の奥に危険が実在する)
彼は無言で車窓に視線を向けた。
彼は無言で車窓に視線を向けた。
その直後。
森の奥――まだ見えない闇の中。
――ギ……ィ……ギュウウ……ン。
錆びついた歯車を、何かが無理矢理ねじ回すような金属音が、空気そのものをねじ曲げるように響いた。
馬車の車輪が、まるで見えない手に押し返されたようにガタンと震える。
ルシエルが即座に身を起こす。
「……今のは、結界の軋みでは済まない音だ。内側から押された……?」
柚葉の心臓が跳ねる。
(警告……? それとも、模型神さまでも、星降る巫女の記憶でもなく……もっと別の何か……?)
黒い蝶が消えた先で、金色の木々が一瞬だけ明滅する。
その光はまるで、何かに怯えるように震えていた。
そのころ――
黒蝶たちは森の最奥へと進んでいた。人の立ち入りを拒むはずの結界の境界を、影のようにすり抜けていく。
その中に、ただ一羽――他の蝶より深く静かに輝く黒藍色の翅を持ったものが紛れていた。
大聖女リディアーヌの誓約霊、“夢喰い蝶”ミルティナ。
主の命に従い、柚葉の周囲を監視しつつ遠くの影を探っていた。
本来なら結界の内側などに入れるはずもない。
だが、ミルティナであっても気づかなかった。
何者かが、あえて黒蝶たちの道を開けていたことに。
結界の内側は静まり返っていた。
風も、虫も、木の呼吸すら消えている。
『……嫌な気配。これは古い魔術……滅びたはずの系統……』
ここに来て、ミルティナもただならぬ気配を覚えたが、黒蝶たちの羽ばたきは止まらない。
そして……目の前に、光のない闇が脈動していた。
――冥色の影が、古い魔術の残滓に喰らいつくように覆いかぶさっていた。
世界の理から切り離された虚闇。
光も星も拒絶する“負の心臓”。
その中心には、人の形を模した“何か”が脈打っていた。
トクン……ドクン……ドクゥン……
脈動が地面を揺らし、周囲の木々から光が剥がれ落ちる。
黒蝶たちは――本能的に逃げるべきだった。
だが、影に触れられたように吸い寄せられる。
ミルティナだけは、ひりつくような痛みに気づいた。
『これは……戻らなないと……誓約霊であっても触れてはいけない……禁忌な……』
けれど遅かった。
闇の人影が、顔のない仮面のように“こちら”を向く。
――視認。
その瞬間。
闇が破裂音とともに弾けた。
黒蝶たちは悲鳴を上げる間もなく飲み込まれて、影、意識、羽ばたき、存在の輪郭までもが、虚闇の中で泡のように溶けて消えていく。
ミルティナの身体を、鋭い痛みが貫く。
『――ッ!! 誓約核が……焼かれる……』
翅が崩れ、光が砕け散る。
霊的存在であるはずのミルティナでさえ、闇の接触を受けた瞬間に「死」を理解した。
だが次の鼓動の瞬間、“誰かの祈りの残滓”がミルティナをかすめ、弾いた。
わずかに生じた隙間へ、ミルティナは飛び込んだ。
『……戻って……伝え……ないと……主に』
翅が崩れながらも、闇の波に逆らって上昇し――かろうじて結界の外へすり抜けた。
背後で、闇が再び脈動する。
ドクン……ドクン……トクン……
その鼓動に合わせて結界が低く軋み、森が怯えるように震えた。




