第36話 星降る夜の決意 月下の離宮に荒ぶる兄上乱入(物理)
王城の夜は、昼よりも明るかった。
無数の魔光灯が通路を満たし、塔の外壁を流れる光がまるで天の川のようにきらめいている。
風は冷たく、だが凛として澄み渡り、祈りの粒子が空気に溶け込んでいる。
けれど――柚葉の心はまるで嵐のよう。
「し、信じられない……! あんな大舞台で“ルシエルの傍にあれ”って、何その公開指名……!」
離宮の部屋に戻るなり、柚葉はベッドの上で転げ回っていた。
白いシーツの海に沈みながら、枕を抱えて悶絶。
「ど、どうしよう……“傍にあれ”って、え、そういう意味じゃないよね!? たぶん政治的な……たぶんっ!」
ついさっき――王の御前で公開指名された。
ルシエルの傍へあれ、と。
(王様、みんなの前でそれ言う!? 公開壇上告白!? いやいやそんなイベントは恋愛小説でしか見たことが……!)
喉元まで込み上げる悲鳴にも似た叫び。
テンパり倒した理性がぐるぐる回り、熟成する暇もなく溶ける。
そんな彼女の独り芝居を、窓辺のルシエルはくすりと笑って眺めていた。
「政治的、ね。うん、そう思ってた方が安心かも」
窓格子から差し込む月が長い睫毛を照らし、ルシエルの横顔はひどく穏やかに見えた。
「その“かも”が怖いんですけどぉ!?」
思わず振り向いた柚葉の頬が、月明かりに照らされてほんのり朱に染まる。
ルシエルは窓から差し込む風を受けながら、静かに言った。
「でも……父上の言葉には意味がある。“黒の加護”は、長らく禁忌とされてきた。けど――それをこの王城で、堂々と認めた。あれは、王としての覚悟なんだ。国を変えるという」
「覚悟……」
柚葉の心に、朝の玉座の光景が蘇る。
七色の光が王座を満たし、無数の視線が自分一人に注がれたあの瞬間。
まるで、世界に見透かされているようだった。
「ルシエルは……怖くないの?」
「何が?」
「“黒の加護”とか、“神の秩序が揺らぐ”とか……あたしのせいで、何か壊れちゃったらって……」
ルシエルは一瞬だけ目を伏せ、そして柔らかく微笑む。
「ユズハ。世界を壊すのは“光”でも“闇”でもなく――“無関心”だよ」
その声は、優しく、それでいて芯があった。
「君は誰かを救おうとして、その光を得た。それが“黒”でも、“夜”でも……僕は、恐れない」
「ルシエル……」
言葉が胸の奥で溶けていく。
ただ、心臓の音だけが静寂を破って響いていた。
その時――王都の巨大な鐘が九度鳴り響いた。
夜の始まりを告げる音。
柚葉はふと、窓の外に目をやった。
白銀の塔の向こう――夜光に揺らぎ、淡い影がかすむ。
「あれ……光が歪んで――?」
疑念が喉に上がった瞬間、部屋の空気が微かにふるえ――
離宮に、異様な気配が充満する。
空気が一瞬だけ震えた――緊張に背筋がざわつく。
しかし、窓が割れたり外から何かが侵入する気配はなかった。
ただ、扉がノックされた。
次の瞬間――
「開けるぞ、ルシエル」
ノックの音が聴こえたかどうかの刹那、扉は爆ぜるように開いた。
熱が走る。
いや、錯覚ではない。入ってきた男の一歩だけで、空気の温度がわずかに跳ね上がった。
炎をそのまま編み込んだような荒ぶる金髪。
鍛えた肉体がまとう、獣じみた圧。
赤金の瞳は、光を飲み込み、獲物を値踏みする捕食者のそれ。
第二王子――ガルディウス。
彼が笑うだけで、戦場の匂いがした。
「よぉ弟。ちょうど退屈してたんだ……身体が疼いて仕方ねぇよ。遊び相手になれや」
入室早々の宣言に、護衛二人は秒で戦闘態勢へ。
「にゃっ!? 入室許可は出てないにゃ! 二人に危害を加えるなら――容赦しないにゃ!」
灰銀ポニーテールを翻し、ニャルディアが飛び出す。
その爪は即座に伸び、斬撃の音を生む。
「おう! 俺も混ざるぜェ!!」
ブレンナは大ハンマーを担ぎ、床を震わせ一歩踏み出す。
だが――
ガルディウスはそれを“歓迎”しているように見えた。
口元がゆっくりと、凶器のように吊り上がる。
「いいね。弱者をいたぶるのは好きじゃないが――“耐えてくれる奴”は、大好きだ」
刹那。空気が裂けた。
彼が動いた。
踏み込みだけで床石が粉塵をあげる。
「にゃっ――速いっにゃああ!!?」
ニャルディアは爪で床を蹴り、ほぼ光跡になって避ける。
その避けた軌跡すら、ガルディウスの殺気に触れたのか微かに震えていた。
ブレンナも器用にハンマーを盾として構え、轟く衝撃を真正面から受け止めた。
「ぐおおおぉッ――でも効かねぇぇッ!」
拳とハンマーがぶつかり合った瞬間、室内の空気が一拍遅れて爆ぜた。
床石に走る亀裂。壁に震える魔導灯。
ガルディウスは、まるで荒れ狂う火竜に火を注がれたかのように笑みを深める。
「いいじゃねぇか……! フィーリングは悪くねぇ。――そのまま“殺すつもりで”来いよ!」
次の瞬間、ニャルディアが稲妻のように背後へ滑り込む。
「まだにゃああッ!」
背を狙った鋭い薙ぎ。
同時にブレンナの大ハンマーが、正面から城壁を砕く勢いで叩き込まれる。
「おりゃああッ!」
しかし――
ガルディウスは片手だけ。
それも、本当に“最小限の角度”だけで両方の攻撃を受け流す。
その瞬間、体を動かしたというより――周囲の空気だけが暴風となって弾け飛んだ。
「うわあッ!?」
「にゃああああッ!」
風圧に弾き飛ばされ、二人の体が宙を舞う。
だがブレンナの骨は折れていない。ニャルディアも、猫特有の身のこなしで着地を決めた。
ガルディウスは指の関節を鳴らし、愉悦に満ちた瞳で二人を見据える。
「今ので――本気の一割にも満たねぇな」
柚葉の喉が小さく震えた。
「ひ……一割……?」
「フシャァァッ!」
ニャルディアは片膝をつきながらも、尻尾を逆立てて吠える。
「さすがにゃ……でも、次はもっと速く避けるにゃ!」
「はははッ! 言うじゃねぇか、小娘ども!」
ブレンナは、胸を叩く音まで戦意で弾ませながら吠え返す。
「オレらコンビのギアも、まだ一段目にも届いてねぇからな!」
ガルディウスは、わずかに口元を歪めながら視線だけをルシエルへ投げた。
「弟。護衛は悪くねぇ。しっかり鍛えてんじゃねぇか……だが――お前が守りたい“異界の娘”はどうだ?」
赤みを帯びた瞳が、獲物を見定めるように柚葉をかすめる。
「明後日、神殿に呼び出される。“大聖女様”の名でな」
空気が凍りつく。
「……リディアーヌ大聖女が?」
「そうだ。『夜の力は秩序をむしばむ』――ご立派なご宣託だぜ」
ニヤリと笑うその気配は、先ほどの戦闘熱の余韻をまだ引きずっている。
「明後日、お前らは正式に皆の前に姿を見せる。“異界の巫女”が“救済”か“災厄”か――俺も楽しませてもらう」
重たい沈黙が落ちる。
その中で、息を整えつつもまだ戦意を滲ませた二人の護衛が笑った。
「……強すぎだにゃ。でも、次はもっと避けてみせるにゃ」
大きく胸を叩き、ブレンナは吠える。
「へっ! 王子サマだけじゃねぇ――オレたちコンビもまだ“遊んでる段階”だぜ!」
ガルディウスはその言葉に楽しげに眉を上げた。
「言うじゃねぇか。……なら、次は本気を少しは引きずり出させてみろよ」
ほんの一瞬、火花のように戦意がぶつかる。
だがその熱気とは反対に、柚葉の胸の奥はひどく冷えていた。
――明後日。
自分は“世界に測られる”。
ルシエルは、強がる暇もない彼女をそっと見つめ、寄り添うように立っていた。
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