第3話 王都への馬車旅、竜を落とした娘とまれびとの予感
朝の風が、そっと頬を撫でていった。
幕舎の外に出た丘の上――空は驚くほど深い蒼で、境界も影もなくどこまでも広がっている。
その“本物”の広さに触れるたび、胸の奥がふわりと浮くようで、逆に現実感が遠のく。
(……空って、こんなにも澄んだ色を持てるんだ)
昨日見上げていたのは、蛍光灯に照らされて白くかすむ店の天井だった。ショーケースに並んだ模型の世界は、今ではまるで遠い夢の奥の、薄い光の粒のように感じられる。
視界を満たすのは――
重厚な木材に鉄帯を組み合わせた馬車。
表面には細い紋章の彫りが走り、車輪は硬化木で縁取られている。
近くを守る騎士たちの鎧は、朝日に濡れたような光を返し、動くたびに静かに金属の息をこぼした。
(……すごい。細工の精度が、全部、生活のための“本物”だ……)
そう感じてしまうのは、きっともう癖なのだろう。でも、その小さな感覚が、あたしが“あたし”である証のようにも思えた。
王都へ向かう隊列の中に、あたしも自然に組み込まれている。
それはルシエルの、「君は守られるべき客人だ」という静かな言葉があったから――けれど。
(どう見ても、“空から落ちて竜を討った謎の娘”の護送にしかみえない……)
「……ルシエル…様」
呼びかけると、馬上の彼は振り返り、柔らかく微笑んだ。
朝の光を受けるたび、金の髪がきらりと揺れ、淡い光の粒が舞うようだった。
どこまでも優しくて、触れれば消えてしまいそうな輝き。
「どうしたの、ユズハ」
「……あの、私……すごい見られてません?」
「うん。気のせいじゃないよ」
「やっぱりぃ……!」
思わず声が裏返る。
隊列を守る騎士たちは、あからさまに視線を向けてきていた。
驚き。
畏れ。
そして――敬意に似た、静かで深い感情。
「空から降りて、竜を退けた娘……」
「黒髪……“祝福の印”か」
「いや、あれは神の御手の導きだと……」
「聖女様が直々にお呼びになるらしい」
囁く声は、風に溶けては胸に刺さる。
(ち、ちがう……! 本当にちがうのに……)
ただの落下。
ただの事故。
竜が勝手に堕ちただけで――あたしには何の力もないのに。
なのに、世界はあたしを“特別な何か”として扱おうとしている。
その不安を吸い取るように、ルシエルの声が降りてきた。
「大丈夫。視線なら、僕が全部払うよ」
振り返った彼の瞳は、朝の光よりまっすぐで――見つめられた瞬間、胸の奥がわずかに震えた。
本当に守ろうとしてくれている。
ただの義務でも善意でもなく、“あたしだから”という理由で。
その気配が、言葉より先に伝わってくる。
風が、二人の間を静かに抜けていった。
「気にしなくていい」
ルシエルは、騎乗のままふと微笑んだ。
その穏やかさは、朝の光と同じ質のぬくもりを帯びている。
「君は、あの場にいた全員を救ったんだ。誰一人、疑う者はいないよ」
優しい声が、胸の奥に静かに染みわたっていく。
けれど――。
(……でも。あれ、本当に“私が”やったことなの?)
思わず手のひらを見る。
指先のあたりに、淡い光の残り香のようなものがあった気がして……すぐに首を振った。
(そんなはずない……。ただ落ちただけ、のはずなのに)
あの瞬間の記憶がふっとよみがえる。
金属のように固かったワイバーンの鱗――触れたのは一瞬で、衝撃の感覚さえ曖昧だ。
(……あの硬さ。どうして貫けたんだろ……)
それに――。
落ちていく最中、一瞬だけ視えた。
ステンドグラスの破片みたいに色光をまとった“核”のようなもの。
単なる錯覚にしては、あまりにも鮮明だった。
考え込んだまま手を見つめていると、不意に視線を感じた。
顔を上げると、ルシエルがこちらを見ていた。
馬上の彼は、陽光を受けて金の髪を揺らし、どこか絵画の一場面のようだった。
けれどその瞳の奥には、淡い思案の影が宿っている。
(……まれびと。空より来た客人。“この地に必要とされ、呼ばれた者”。しかし――彼女の内側にあるものは、何だ?)
彼の考えは、誰にも聞こえないほど静かだった。
だが、その視線は一瞬たりとも柚葉から離れない。
落下の勢いだけで竜を貫けるはずがない。
あの瞬間に働いたもの――それは偶然でも奇跡でもなく、確かな“力”だった。
(もしや……本当に、この世界が彼女を呼んだというのか)
風が丘を渡り、柚葉の髪の束をやわらかく揺らす。
ルシエルは、その横顔を無意識に追い、視線をそっと預けた。
彼女はまだ、自分の力を知らない。
自分がこの世界に何をもたらすのかも――。
だが、ルシエルの心だけはその瞬間、ひとつだけ確かになった。
(……君を守る。その理由は、加護でも、使命でもない。ただ――君だからだ)
柚葉には届かない想いが、風の中でそっと揺れた。
馬車の窓越しに流れる風が、彼女の髪を撫でる。
その黒髪は、陽光の中でも夜のような深さを持っていた。
「……綺麗な髪だね」
「え?」
「この国で黒は“始まりと終わり”を象徴する。聖女や神官ですら滅多に持たない色だ。君のように、これほどの黒を自然に宿している人間は――神の印とされている」
「神の……印?」
「そう。黒に無理に染めようとすれば、天罰が下る、とも言われている」
「えっ、それはまた物騒な……」
(でもなんかわかる……おばあちゃんも“黒髪は月城の誇り”って言ってたし……黒髪って、光の入り方で青にも紫にも見えるところが綺麗なんだよね……)
昔、兄が言ってた。
――“黒は色じゃない、影の造形だ”。
ルシエルは穏やかに続けた。
「君がその髪を受け継いだのなら、きっと意味があるんだよ。この世界でも、君の世界でも」
その言葉が、やけに胸に響いた。
まるで、誰かに「生きていていい」と言われたように。
「ねぇ、ルシエル様」
「ん?」
「王都って、どんなところなんですか?」
その問いに、ルシエルは一瞬だけ考え、そしてやさしく微笑んだ。
「そうだな……君の世界の言葉で言うなら――“模型の完成品”に近い場所、かな」
「……え?」
「遠くから見ると完璧だ。でも近づくとほつれが見える。それでも皆が“理想の形”を信じて作り続けている」
模型オタクの急所に、急に深い言葉を刺してこないでほしい。
(そんなの……好きに決まってるじゃん……)
胸がじんわり温かくなる。
模型を作る時の感覚と、どこか重なっていた。
「……素敵なところ、ですね」
「そうだといいけれど」
ルシエルがふっと笑った。
風が香草の匂いを運び、馬車の揺れが心地よくて、ふとまぶたが落ちそうになる。
戦場の恐怖も、異世界への戸惑いも、王子の声に溶かされていくようだった。
(……この人、ほんとにずるいくらい優しい……)
小さく息を吐いて、あたしは目を閉じる。
やがて馬車の中に、穏やかな揺れと、柔らかな沈黙だけが残った。
そしてその夜――
月明かりが、天幕の隙間から差し込んでいた。柚葉は寝返りを打って、目を開ける。
眠れない。胸が、静かに騒いでいる。
外に出ると、夜風が頬を撫でた。見上げた空は、信じられないほどの星。
まるで世界が、彼女を包み込むように瞬いていた。
(あの人……今ごろ、まだ起きてるかな)
昼間の声が思い出される。
「君の黒髪は、神の印だ」
(そんなわけ、ないよ……でも……)
指先で髪をすくう。月の光が黒の中で淡く揺れる。
ほんの少しだけ、誇らしく思えた。
(ルシエル……あなたの言葉、なんかずるいなぁ)
夜風が頬をなで、どこか遠くで焚き火の音がした。
そのぬくもりが胸に残ったまま、柚葉は天幕に戻り、横になるとそっと目を閉じた。
世界が、少しだけ優しく見えた。




