第35話 夜に揺れる祈り、光を求める心、冷酷な王子は少女に“共鳴”を見る
その時、聖堂の扉が静かに開いた。
足音はひどく静か。まるで影が歩くような気配。
「……リディアーヌ大聖女」
銀の炎の前に現れたのは――第一王子、アーシェス・レガリア・ヴァルハイト。
冷ややかな気配をまといながらも、その瞳の奥は深く揺れている。
「来ると思っていました、アーシェス殿下」
「貴女は何も言わずに動く。……だから、私が来る必要があると思った」
アーシェスは祭壇の光を受けて目を伏せた。
銀の光が彼の睫毛に落ち、影が揺れる。
「……灰の賢者は、何を持ち込んだ?」
「殿下が、それを問う理由は――」
リディアーヌは問いを飲み込み、微笑に変える。
「変わりませんね。冷たい眼差しの奥に……消えない焔が揺れている」
アーシェスの表情は動かない。ただ、わずかに呼吸が乱れたように見えた。
リディアーヌは静かに続ける。
「貴方は……あの日から、ずっと探しておられるのでしょう?」
その言葉に、空気がひどく張りつめた。
“あの日”
――王妃セレーネが失われた日。
――彼女の亡骸が、神殿から忽然と姿を消した日。
――世界の底でうねる”禍つ企て”に呑まれた日。
復活を欲する”名も知れぬ存在”にとって、彼女は欠かせぬ鍵とされ連れ去られた日。
アーシェスの瞳が、一瞬だけ揺れた。
彼の冷たさの奥に潜む“痛み”は、誰よりも彼女が知っている。
「……探しているのは、“真実”だ」
王子は、感情の欠片すら見せない声で告げた。
「……奪われたものを取り戻し、二度と同じ闇を許さぬために」
「ええ。私も願っています。白月の巫女の名を継ぐ者として……そして、セレーネ様を母のように慕った者として」
セレーネの結婚前の名は、セレーネ・ルミナリア 代々光の魔術を極めたルミナリア家の直系。分家筋のリディアーヌをそれは可愛がっていた、師匠としてまた母に代わって。
リディアーヌの指先がかすかに震える。
その手は、祈りではなく“求めるもの”に向けられていた。
「師上様の光は……まだ消えていません」
アーシェスの目が細められる。
「…………断言できるのか」
「ええ。私は、彼女の“霊核の匂い”を忘れませんから」
炎が揺れ、二人の影が寄り添うように重なる。
「だからこそ、殿下。貴方は“光を宿す者”それが黒に属す者だとしても、黒髪の少女――ユズハ。彼女の加護に目を向けるのですね」
アーシェスの表情が、わずかに凍りつき、瞳が細められる。
「……共鳴したのか」
「微かに、ですが。彼女は“鍵”かもしれません」
沈黙が降りる。
アーシェスの拳が、衣の中で静かに握られる。
冷酷なまでに静かな王子の瞳に、かすかな熱が灯る。
「……ならば余計に、見極めねばならん」
「はい。あの子が“扉を開く者”なのか、それとも――“閉ざす者”なのか」
リディアーヌは静かに告げる。
「我らの探す“光”へと至る道を、閉ざすのか。あるいは、開くのか」
一陣の風がステンドグラスを鳴らし、色と影が二人の間に降り注ぐ。
やがてアーシェスは踵を返した。
「……俺は、希望という言葉を信じない」
「ええ。ですが殿下――誰よりも“光を取り戻したい”と願っているのは、あなたです」
アーシェスは立ち止まり、振り返らずに静かに答える。
「……それだけは、否定できないな」
彼が去ったあと、祈りの間に静寂が戻る。
残されたリディアーヌは胸元に手を置き、そっと囁いた。
「セレーネ様……どうか我らを、お導きください」
祈りに呼応するように、透き通る翅を持つ蝶が静かに舞い、夜へ溶けていった。
蝶の残光が闇に消えた瞬間、祈りの間をかすかな風が撫でた。
リディアーヌはわずかに目を上げる。
本来ならその風の中に、金色の紋様を纏う小さな聖獣――イルヴァの気配が宿るはずだった。
だが、今宵も姿はない。
「……また、帰ってこなかったのですね」
呟きは吐息ほどに小さい。
アーシェスも足を止め、振り返らぬまま低く応じた。
「イルヴァが追っている。“風の道”すら辿れぬとなれば……行方は相当深い闇に呑まれている」
“風の聖獣”をもってして掴めぬ行方。
その意味を二人とも理解していた。
祈りの間に沈黙が落ちる。
互いに顔は見ていない。
それでも、同じ瞬間に――ほんのわずか、胸の奥から落胆の息が漏れた。
どちらにも聞こえないほど静かに。
だが確かに、同じ痛みを分かち合ったため息だった。
ミレフィーオ。
土の大環神グランテルメスの聖女候補。虚邪の穢れに触れた直後、忽然と消えた少女。
胸を締めつける痛みが、祈りの静寂を食む。
リディアーヌは両の手を強く組んだ。
「……虚邪の穢れが、これ以上誰かを奪うのなら……」
言葉が細く震えた。
アーシェスがゆっくりと振り向く。
その眼差しには、氷のような冷徹さと、灼けるような怒りが共存していた。
「許さぬ。奪われた光も、土の娘も……二度と虚邪の手に渡さぬ」
抑えていた激情が、静かな声に宿る。
燃え立ちながらも、絶対に揺らがない炎。
リディアーヌもまた、同じ焔をその瞳に宿した。
「……殿下。どうか、共に行かせてください。光も、土も、未来も――虚邪の穢れには渡せません」
ステンドグラスの彩光が二人の影を重ねる。
その瞬間、風が戻り、祈りの間の蝋燭がかすかに揺れた。
まるで、見えぬイルヴァが彼らの決意を聞き届けたかのように。
リディアーヌは一度だけ深く息を吸い、言葉を継いだ。
「そして……急がねばなりません。黒髪の娘――ユズハの“黒の加護”と、“星降る巫女”の系譜に連なる力。あの二つが、虚邪を断つ“最初の糸”となり得るか……早急に見極める必要があります」
アーシェスの眉がかすかに動く。
「……やはり、そう見ているか」
「ええ。星の巫女の力は“空の理”に触れる特異なもの。そして黒の加護は、本来なら光とも闇とも異なる、第三の超越域……」
リディアーヌの瞳に、揺れる炎が宿った。
「その二つが揃った時――虚邪の穢れの核心に、初めて手が届くかもしれないのです」
リディアーヌは胸元を押さえ、声を落とした。
「星降る巫女……その力は“天穹の理”に接続するもの。大地でも、光でもなく――星々が編む“軌道の魔性”に触れる異質の加護です」
アーシェスがわずかに目を細める。
「軌道……つまり、世界の縁に連なる力か」
「はい。星の巫女は代々、世界の境界に生じる“歪み”を察知する役目でした。本来ならば大地の巫女が“発生源”を特定し、星の巫女が“侵蝕の従源”を視る。光の巫女が“浄化”を行い、三柱で一つの循環なのです」
アーシェスの拳が、衣の内で静かに震えた。
「……ミレフィーオが行方不明の今、その均衡は崩れている」
「ええ。だからこそ――ユズハの黒の加護が、仮初めとはいえ“第四の回路”になり得るのです」
炎の揺らぎが、リディアーヌの顔に深い影を落とした。
「しかし……問題はカディスです」
その名を口にした瞬間、場の温度がひどく冷え込んだ。
「灰の賢者……彼は、“歪み”を力として利用しようとしている」
「はい。彼はすでに気づいています。虚邪の穢れが、ただの瘴気や呪詛ではなく――世界法則の“綻び”そのものであることに」
アーシェスの表情が明らかに険しくなる。
「……法典詠唱〈コーデクス・アーキタイプ〉の再現を狙っているのか」
「可能性は高いです。星の巫女の力は“境界”を視る……そして黒の加護は“境界を越える”。カディスがその二つを手に入れれば――」
リディアーヌの声が震えた。
「虚邪すら、彼の“理論”で再定義されてしまう」
アーシェスの瞳が深く沈む。
「……世界のほうが、書き換えられるということか」
「はい。虚邪を断つどころか、虚邪の“新たな理”が生まれかねません。だからこそ、先にユズハを保護し、その力の正体を見極めねばならないのです」
静かな祈りの間に、ふたりの影が長く伸びた。
「殿下……星の巫女の力は、光にも闇にも染まる。ユズハが“鍵”であると同時に――“扉そのもの”になり得る存在なのです」
アーシェスの息が、ひどくゆっくりと吐き出される。
「……ならば尚更だ。あの娘を誰にも渡さぬ。虚邪にも……灰の賢者にも」
その声音には、炎のような決意があった。




