第34話 大聖女リディアーヌの祈りは、誰にも触れられぬ絆を宿す
王都の中央にそびえる〈聖セラフィード神殿〉
白大理石の柱が立ち並ぶ回廊を、月光が淡く染めていた。
その最奥――祈りの間。
夜風がステンドグラスを震わせ、色彩の影が床を静かに滑っていく。
祭壇の前に立つひとりの女性。
白に近い銀の髪を背に流し、透明な祈りを宿した眼差し。
大聖女――リディアーヌ・ルミナリア。
その姿はまるで月下に立つ彫像。だが、いまその静寂を破る影があった。
回廊の奥から、足音がひとつ。金属が石を叩く乾いた響き。
「……祈りの最中にお邪魔とは、無粋でしたか」
声は穏やかに、だが底に鈍い刃を隠していた。
リディアーヌは目を閉じたまま微笑む。
「貴方の足音は、風より静かです。灰の賢者、カディス・ヴェルド。あえて足音など立てる必要などないのですよ」
「恐れ入ります。私のような裏契約者を賢者と呼ばれるのは、少々くすぐったいですね」
カディスは、礼もせずにゆっくりと歩み寄り、白の神像を背にする彼女と向かい合う。
「“灰と光”の理論。貴方が提案したレポートを、読ませていただきました」
リディアーヌの声は、どこまでも澄んでいた。
だが、その奥には、祈りよりも深く強い“知への乾き”がある。
「世界は光と闇で均衡する。だが、もしもその狭間に“灰”の層が在るのなら?」
彼女の瞳が、わずかに揺れた。
カディスは小さく笑い、チェスターコートの裾をひるがえす。
「信仰の言葉にしては、理論的ですね。私はそこに興味を抱きました。神が創ったのは“光”か“闇”か――あるいは“曖昧”か」
リディアーヌはその問いに、短く息を吸った。
「……曖昧を神は嫌うと、書にあります」
「ならば――神の書を“書き換えた”者がいるとしたら?」
静寂。
カディスの指が空中に円を描いた。
その軌跡に淡い魔術光が生まれ、歪んだ文様が浮かぶ。封印された“法典詠唱”の断章――それは見る者に恐怖を呼ぶ理の光。
「これは……“コーデクス・アーキタイプ”……」
彼女の唇から、ほとんど息のように漏れたその名。
神殿の奥に響く、その言葉が意味するものを、彼女は知っていた。
「禁呪――世界法則の再定義。貴方はまだ……それを追っているのですね」
「神の理を検証するのは、学びであり、背信ではない。……そう思いませんか、大聖女殿?」
微笑が交錯する。
光と灰の境界に立つ者同士の、危うい均衡。
やがてカディスは、魔法陣を指先で弾いて消した。
「これで――貴女の“望み”は叶うでしょう」
その言葉に、リディアーヌの身体が僅かに震えた。
「……っ、なぜ……貴方、まさか――」
言葉を紡ぐよりも早く、彼はもう背を向けていた。
コートが月光を裂き、影のように夜へ溶けていく。
最後に残ったのは、淡く揺らめく香油の炎。
その火が、彼女の金の瞳に映り込み、震えていた。
まるで――光そのものが、初めて“恐れ”を覚えたかのように。
祈りの間に静寂が戻ったころ。
揺れる炎を見つめたまま、リディアーヌはそっと目を閉じる。
その奥で、ひとつの“記憶”が淡く滲む。
――金色の光。
――澄んだ笑み。
――人々を照らした陽光の巫女、セレーネ。
その面影が過ぎった直後、胸の奥がきしむ。
――そして今も消息の掴めない、土の大地母神グランテルメスの聖女候補ミーレフィオ。
つい最近、虚邪の穢れが地脈を乱したあの日から、彼女は戻らない。
無事でいるのか。あるいは穢れに呑まれたのか。
考えるたびに、祈りよりも痛みに近い想いが胸を締めつけ、リディアーヌはなお一層、杯を握る手に力を込めてしまう。
……世界を支える五つの息吹は、まるで夜明け前の空に浮かぶ星々のように、互いを知らずとも確かに響き合っている。
火が赤く息づくのは、その奥で水が静かに揺れているから。
水が澄み渡るのは、風がその面を優しく撫でてくれるから。
風が自由でいられるのは、土が揺るぎない手で大地を抱いているから。
土が眠りを保てるのは、遥かな星々が見守るように光を降らせているから。
そして――五つの息吹が互いを支え合うその中心には、ただひとつ、揺らがぬ御心、原初神《大神セラフィード》が宿る。
世界がまだ形すら持たぬ遠い昔、最初に沈黙へ光を落とした御方。
その光はやがて五つに枝分かれし、現世の“神々”と呼ぶ息吹へと。
ゆえに――火が危うげに揺らぐとき、水が淀み、風が迷い、土が軋み、星が泣く。
五つのどれかが欠ければ、それはひとつの声が沈むのではなく、世界という“楽曲”の調べそのものが崩れ始める。
巫女や聖女が祈るのは、ただそれぞれの神へ向けてではない。
祈りは地の底で、静かにひとつへと溶け合い――やがてすべて、セラフィードの御座へ帰りゆく。
大地に宿る命も、夜に瞬く光も、呼吸のように消えては生まれゆく炎さえも、すべてが、原初の光へ帰還する旅路の途中。
だからこそ、五つの息吹は欠けてはならぬ――どれひとつとして、見放してはならない。
この世界は、五つの祈りが織り成す光の織物。そしてその機を回すのは――原初神セラフィードただ一柱。
それが、世界に流れるもっとも古い、もっとも美しい理として語り継がれ今に至る。
その均衡を保つために、神々は“巫女”を選び、“聖女”を授けられる。
なのに、この大陸は静かに軋んでいる。
祈りの綻びは、誰にも見えず、誰にも届かないまま、確かに世界を蝕んでいる。
火の戦焔神 《イグナヴァルド》 紅蓮の戦の息吹を司る烈火の神。
かのものに選ばれた巫女は、今も遠く火の王国〈ヴォルグレア〉に、そこは火竜の咆哮が地の底から響き、霊火が荒れ狂う国。あの土地では、一瞬の迷いが、国境そのものを焼き尽くす。
彼女の祈りが弱まれば――武を誇る国であっても、誇りと共に一夜で崩れる、かの月牙の吼王国と恐れられた獣人国ノクト=ファングのように。
ゆえに、彼女は帰れない。
水と癒しの蒼海女神 《アクアミエラ》 命の流れと癒しを司る静穏の女神。
その加護を継ぐのは、リディアーヌ・ルミナリア『白月の聖女』。
月雫の奇跡は、すべての痛みと穢れを洗い流すもの。
されど千の痛みを抱くということは、千の悲しみと向き合うということ。
ほんの少しでも祈りが揺らげば、王都の祈りは濁り、聖なる流れは淀む。
風の旅神 《エアルヴァンス》 自由と旅路を司る風の神。
かのものが選んだ巫女は……風のように行く先を定めない娘。
会えば笑い、次の瞬間にはどこにもいない。捕まえようとすれば、すり抜けていく。
神殿の記録にも、神官たちの祈りにも、彼女の行先は書かれない。
「彼女の軌跡は、風の気まぐれを読むようなもの」
土の大地母神 《グランテルメス》 揺らがぬ守護と地脈を司る大地の母。
そして――最も胸を痛めるのは、あの優しい少女、ミーレフィオ。
虚邪の穢れが大地を侵食したあの日、彼女は祈りを捧げたまま、光の向こうへ消えた。
大地は今、ひどく静か。何かを失った後に残る“空白”のようなもの。
智識と星の書神 《アルマルクシオン》 星々の叡智を導く夜の書の神。
かのものに選ばれるのは極めて稀。銀書の声を聴き、星図を読む者だけが門を叩ける。
……けれど。
まだ名も持たぬ、ひとりの少女がここに。
黒の加護を宿し、夜の光に触れ、星々に愛された“まだ芽吹かぬ星の巫女”。
“宵闇の光の聖女”――ユズハ。
本人はまだ気づいていない。けれど、彼女のまわりには常に、星の呼吸がある。
あれはきっと……夜の神の手が、そっと触れた証。
五つの祈りは、五つの命脈。そのひとつが欠けただけで、世界は容易く傾く。
――今、大陸は二柱の沈黙と、一柱の不在を抱え、そして一柱は遠国に、最後の一柱はまだ眠りの中。
静かに、けれど確実に。
祈りの天秤は片側へ沈みつつある。
……だからこそ。星の巫女が現れた奇跡を、決して見過ごせない。
祈りは届くのか。
その時、聖堂の扉が静かに開いた。
足音はひどく静か。まるで影が歩くような気配を運んで。




