第30話 影刃を抜かずに挑む外道狩り、ただ一撃で静寂が落ちる
ジークの案内で向かったのは、スラム南端の崩れかけた倉庫街。
月光は湿った壁に遮られ、路地には腐敗した静寂だけが沈殿する。
「……あそこ。あいつが……ミーナを……」
ジークの指す先で、褐色の巨体が酒瓶を揺らしていた。
ただの酔っぱらいではない。
分厚い肩、鋼線のように張った筋肉、かつて幾度の戦場を越えた者にしか纏えない“殺し慣れた気配”。
腰には使い込まれた大型の戦斧。
片耳には冒険者ギルドの古い黒鉄徽章―― Bランク以上に許される階梯刻印。
「へぇ……元Bランクのくせに落ちぶれちゃいるが」
グレイヴはニヤけながらも、目だけは獣のように男の動きを測る。
「筋肉の張りはまだ死んでねぇな。そこだけは褒めてやるよ」
「……誰だテメェ」
男の声は濁っていたが――腹の底から響く“戦士の声”だった。
「ガキを傷つけた“ゴミ処理係”だよ」
低く、落ち着き、殺すと決めた相手にだけ向ける声。
その一言で、男の眉が跳ね上がる。
「なんだと……!? スラムのクズ風情が……俺を舐めるなよ」
男の足が一瞬で戦闘の間合いを取る。
その動きは――酒に溺れた男のそれではなく、かつて上位冒険者として死線を渡った者の、無駄のない一歩。
男は酒瓶を投げつけ、同時に腰の 戦斧 を引き抜いて突進した。
ドンッ!!
路地の石畳が割れそうなほどの踏み込み。
重斧を振るうための全身の筋肉が、一瞬で爆ぜる。
――ただ者ではない。真正面から受ければ人間ごと砕ける。
だが。
「おーおー、勢いだけは“現役級”じゃねぇか」
その声は、斧の軌道とは真横から聞こえた。
「……は?」
――振り下ろす寸前。視界からグレイヴが消えていた。
風だけが、男の前髪を逆なでる。
次の瞬間、背後。
「はい残念。詰んだ」
軽い調子で告げられた直後――風を裂く踵が、ひらりと弧を描き、
メキッッ!!!
男の後頭部にめり込んだ。
「ぐああああああ!!?」
巨体が石畳に叩きつけられ、戦斧はくるくると空を舞い、鈍い音を立てて転がった。
グレイヴはポケットに手を突っ込んだまま、面倒くさそうに吐き捨てる。
「これで終わり……? マジかよ。元Bランクって肩書き、今すぐ返上した方がいいぜ。粘れよ、少しは」
「く、クソがァァァ!!」
男は血を吐きながらも、戦場経験者らしい反射で身体をねじり、腰布の裏から 隠し刃 を抜き取った。
獣のような叫びとともに、地面を蹴って突き出す。
が――
グレイヴの指先が、 紙切れでも摘むように 刃先をつまみ上げた。
殺意を含んだ突きは、そこでぴたりと止まる。
「……こんな稚拙な攻撃って……おまえ、本当に元でもBランクか?」
吐き捨てるような声。
その声音に、男の顔からさぁっと血の気が引いた。
どれほど力を込めても、刃は軋むだけで一歩も進まない。パニックで手を離す判断力すら残っていない。
(……つ、つよ……すぎる……)
背後で見ていたジークの膝が小さく震えた。
あの巨体の戦斧使いを、まるで子供みたいに――。
グレイヴは大きくため息をついた。
「もういいや。飽きた」
一歩。
ほんの一歩、それだけで――男の視界が裏返った。
次の瞬間、膝から崩れ落ち、ナイフは遠くへ跳ね飛び、石畳を転がっていく。
冷えきった声が落ちてきた。
「……で。テメェ、なんで子供なんざ狙った?」
男は荒く呼吸しながら、それでもどこか歪んだ笑みを浮かべる。
「お、俺の勝手だろ……。最近“子供を買い取ってくれる連中”がいてな……魔力のあるガキほど、高値がつく……! 生きていようが、死んでようが、関係なくな……」
「……っ!」
ジークの喉がひゅ、とつまる。
震える声が漏れた。
「……売る、つもりだったの……? 僕たちを……ミーナを……それで……!」
「へへ……スラムのガキなんざ、どう扱おうが──」
その瞬間。
ドスッ――!
グレイヴの脚が閃き、男の顎を正確に、容赦なく蹴り抜いた。
ゴキッ。
乾いた、何かが砕ける音。
男は白目を剥き、地面に沈む。
「外道が。言っていいことと悪いことがあんだろうが」
(……こ、怖……でも……この人が来てくれなかったら……)
ジークの肩がまだ小刻みに震えている。
恐怖と安堵が混ざり合い、胸の奥が締めつけられた。
グレイヴは冷たい笑みを零す。だが、その裏で背筋に微かな寒気が走った。
(こんな外道どもがスラムの子供たちを攫っている?……“生き死に関係ねぇ”だとよ。どの面下げて言いやがる)
コートの裾を揺らしながら、倒れた拍子にはだけた男の首筋に刻まれた“奇妙な紋章”へと視線を落とす。
「呪紋……か。しかも見たことねぇ式。旦那の情報網にもなかったな。裏で糸を引いてんのは……何者だ?」
星屑のような光の余韻がまだ漂うスラムの路地裏。
その中心で、グレイヴはつぶやく。
「……面倒な匂いしかしねぇな。だが、俺に見つかった時点で、逃げ道なんざ――もう無ぇよ」
その口元はかすかに吊り上がり、笑みとも、獲物を見つけた獣の反応とも判別できない。
双眸は異様なほど静かだ。それなのに、その奥底には鋼の核のような熱が、鈍く蠢いていた。
――まるで、これから始まる“さらなる狩り”を心の底から待ち望んでいるような危うい光。
静寂が戻る。
ジークは震える指先で、グレイヴを指さしていた。
「に、兄ちゃん……すげぇ……」
「おう。だから言ったろ、楽勝だって」
グレイヴは肩をすくめ、ふと思い出したように、
「――あ、ジークの分忘れてたわ」
と言うと、外道の顔面をもう一度、容赦なく蹴り上げた。
鈍い音が闇に沈む。
(はぁ……しゃーねぇ。黒幕の情報は迅月衆の尋問専門に丸投げだな)
グレイヴの口元に、嫌な意味で愉快そうな笑みが浮かぶ。
(“シラツキ”か。あいつなら呪紋持ちだろうが魔族だろうが、確実に吐かせる。問題は……こいつが今のままじゃ喋れる面じゃねぇってことだな)
男の襟首を片手で掴み上げる。
(適当に手当てして丸投げでいい。シラツキの前で黙ってられた奴なんざ、見たことねぇ)
その名を思い浮かべるだけで、グレイヴは肩をわずかに震わせた。
恐怖ではなく――ただ、あまりに淡々と仕事をこなす“尋問の鬼”への、冷たい敬意。
月が雲間から顔を覗かせ、長く伸びた影が地面に揺れる。
グレイヴは指を軽く鳴らした。
「よし、回収すっか」
その瞬間。
――カサリ。
空気が揺れ、路地裏の暗がりが“裂けた”。
黒い影が、まるで音を殺して降りてくる。
月明かりを吸い込むような黒衣――迅月衆。
その先頭に、三日月のように細い片目を持つ男が歩み出た。
ミカヅキ。
無言、無表情、無温度。
だが、その視線はグレイヴを見た瞬間、露骨に“嫌悪”で歪んだ。
「……あぁ? お前かよ。回収と“吐かせ要員”、準備万端ってわけか」
グレイヴがニヤつく。
だがミカヅキは返事をしない。
ただ、まるで毒でも見るようにグレイヴの全身を嘗めまわす。
その沈黙は不快なほど濃い。
だが、迅月衆の中では、これが“最も刺す”反応だ。
「おいおい、相変わらず愛想ねぇな、ミカヅキ。そんな顔すんなよ? 俺様はお前の仕事を手伝ってやってんだろ」
ミカヅキの足元で、倒れた外道が震える。
黒衣がすっと動き、ミカヅキはグレイヴの手から男を無言で奪い取った。
その指は氷のように細く、冷たく、容赦がない。
そして、ようやく一言。
「……シラツキが待っている。無駄な損壊は避けろ、グレイヴ」
「あ? 俺が“無駄”なんかすっかよ。ただのサービスだろ」
ミカヅキは答えない。
ただ鼻で笑ったように見えた。
影がふたたび揺れ、迅月衆の面々が男を抱えて闇へ溶けていく。
すれ違いざま、ミカヅキはほんの一瞬だけ、グレイヴに鋭い眼光を向けた。
その光は、刃。
挑発でも警告でもない――純粋な“敵意の形”。
グレイヴは肩を竦め、薄く笑う。
「……はいはい。仕事熱心で結構。けどよ、ミカヅキ」
闇に消える背中へ、軽く言い放つ。
「――次に会う時は、テメェと遊ぶ時間も作っとくわ」
ミカヅキは振り返らない。
ただ、その影の端が一瞬だけ、刃物のように細くゆらめいた。
路地裏に、再び静寂が満ちる。
迅月衆たちは影と共に溶け、存在の余韻だけがそこに残った。
冷気のように薄く、気配は消えても“敵意の棘”だけは地面に突き刺さったまま。
(ちっ……あいかわらず嫌な連中だ。気配だけ残して帰るんじゃねぇよ)
グレイヴは舌打ちしつつ、ふと自分の掌を見る。
さっき掴み上げた男の血の温度よりも――その前に感じた“違和感”が、脳裏にこびりついて離れない。
(しかし、あの黒髪……ただの加護持ちじゃねぇ。あれは……なんだ? ただの髪だぞ……?)
ほんの一瞬だけ交わした視線。
闇に灯るような黒。
魔力でも呪紋でもない――なのに、背筋がざわつく理屈の通らない“異質さ”。
(……こいつは、この件が済んだら、近いうちに確かめる必要があるな)
グレイヴはコートの袖で血を払いながら、夜空を見上げる。
雲の切れ間から月光が落ち、路地裏を淡く照らしていた。
“影刃士グレイヴ”と“異界の聖女”。
その運命は静かに――だが確かに、柚葉の知らぬところで絡み合い始めていた。




