第29話 黒の加護が星のごとく瞬く時、奇跡はひとりの少女に降りそそぐ
振り返った瞬間、空気が変わった。
細い影がふらつきながら立っていた。
血まみれの少年――ジーク。
その腕には、ぐったりと力の抜けた小さな少女を抱えている。
「……っ、兄……ちゃん……ミーナが……!」
声はひび割れ、喉の奥で途切れそうだった。
その震えだけで、ここへ来るまでにどれほど必死だったかが分かる。
子どもたちのざわめきが、すっと消えた。
路地裏に溜まったざらついた闇でさえ、息をひそめたように音を失った。
そして――グレイヴの表情から“軽さ”がすっと消えた。
薄笑いも、嘲りも、余裕も。
残ったのは、冷たい硬質だけの目。
「……誰にやられた?」
低い問いに、ジークは唇を震わせながら答える。
「さいきん……スラムに来た元冒険者で……っ、Bランクだったって……あいつ……ばけものみたいで……!」
「よりにもよって……厄介なのが来やがったな」
グレイヴはミーナの状態に軽く視線を落とす。
少女の胸は、浅く、小さく上下しているだけ。
声も出せない。手も動かない。
命そのものが、糸一本で吊られているような危うさだった。
周囲の子どもたちは、誰も息を飲む音すら出さない。
グレイヴはゆっくりと片膝をつき、ミーナの顔を覗き込んだ。
その双眸に宿るのは、敵へ向ける殺意とは別物――燃え上がるのではなく、底へ沈むような“静かな怒り”。
「……医者は?」
短く問う声に、ジークは首を横に振り、唇を噛みしめた。
「む、無理だよ……金なんてない……治癒魔法も……っ」
「…………ほーん。……クソが」
押し殺した声。
その吐息には、鋭さよりも、どうしようもない無力への苛立ちがにじむ。
グレイヴは少女をそっと抱き寄せた。
まるで壊れ物に触れるような慎重さで。
「グ、グレイヴ兄ちゃん……ミーナ……死んじゃ……」
ミーナの手は冷たく、指先は震えてもいない。呼吸は浅く、途切れ、脈は触れた瞬間に消え入りそうだった。
「……クソッ」
低く噛み殺すような声が漏れる。
グレイヴは地面に膝を押しつけるほど身をかがめ、舌打ちを一つ。
その顔に浮かぶのは、軽薄さとは対極の表情だった。
「なんでだ……なんで弱ぇ奴から先に死ぬ……。薬も治癒も、金のあるやつしか届かねぇ。貧民区は見捨てられて当然みたいな顔しやがって……クソったれだ、本当に……!」
震える拳。
怒りというより、どうにもならない現実への悔しさがにじむ。
(俺のスキルじゃ治すなんて無理だ……破壊しかねぇ。旦那に泣きつく? 間に合わねぇ……ッ!!)
唇を噛み、血の味が広がる。
その瞬間――
ミーナの微弱な呼吸が、ふっと途切れかけた。
──ぽうっ……。
闇に沈んだスラムの空気が、わずかに震えた。
グレイヴの懐から、ひどく場違いな柔らかな光が漏れ出した。
「……は?」
訳がわからず、取り出してみれば、それは――あの甘ったれで、王子サマに夢中で、妙に守られていた小娘の“黒髪”。
ただの魔力が多くこもっただけの髪のはずだ。
だが、手のひらに触れた瞬間、光は鼓動のように脈打ち始めた。
「……嘘だろ……?」
「え……?」
「な、に……これ……」
子どもたちが息を呑む。
黒髪から――黒い蝶が、ゆらりと舞い上がった。
羽ばたくたびに銀色の星光がぽつぽつと零れ落ち、その粒がミーナの体へ吸い込まれるように降り注ぐ。
静寂。
次の瞬間――
「っ……あ……」
ミーナの身体に“色”が戻った。
死人のようだった肌に血が通い、途切れていた呼吸がふっと繋がり、傷口が音もなく閉じてゆく。
「う、そ……ミーナ!? ミーナ!!」
「……おに……ちゃん……?」
か細い声。
ジークが泣き叫びながら妹を抱きしめる。
その肩の上でミーナは痛む表情のまま、安心したように泣き出した。
子どもたちの歓声が、古びた院に一斉に満ちる。
老シスターは震える手で胸元の星銀の聖印を握りしめた。
「……あぁ……これは……光の巫女様の……祝福……。本物の……奇跡……」
涙が頬をつたう。
誰ひとり声を出さずとも、その場の空気すべてが震えているのがわかった。
――ただひとり、グレイヴを除いて。
彼は黙り込み、手のひらの黒髪を見下ろす。
だが、その黒髪は――ゆらり、と光を失い。
黒い蝶の群れとなって霧のようにほどけ、静かに、跡形もなく消えた。
「…………なんだよ……これ」
低く漏れたのは、ただの驚愕ではない。
得体の知れない“何か”への、本能的な戦慄。
だがその奥には――己の知らぬ力を見つけてしまった者の、抑えきれぬ興味が微かに灯っていた。
そして、胸に広がる、得体の知れない温かさ。
「……あの黒髪の女……まじで“聖女サマ”じゃねぇか……」
呟いた声は震えていた。救われた命を見て、胸の奥が知らず熱くなる。
「……クソッ……なんだその……優しさの極めみてぇな魔力……。あーもう……感謝なんざするつもりはねぇっての……」
グレイヴはそっとミーナの頭を撫でた。
「もう大丈夫だ。……生きてりゃ、また笑える。そうだろ?」
そして、気持ちを切り替える。
「――よし。ジーク」
「……っ、兄ちゃん……ありがとう……!」
「礼はいい。代わりに、案内しな。一番むかつく奴のところへ」
グレイヴの声は低く、しかしどこか楽しそうだった。
「“上等な外道サマ”がこのスラム荒らしてんだろ? 俺のガキどもに手ぇ出したんだ。落とし前つけてもらう」
夜風がざわりと揺れた。
「……止めるなよ、シスター。これはこの世界のけじめだ……」
そこで、グレイヴはふっと目を細める。
どこか照れくさいような、しかし深く信頼している者へ向ける眼差しだった。
「……あんたが拾ってくれた俺だ。覚えてるか? 血まみれで泣きもせず寝てた赤ん坊の俺を、あんたは置いていけねぇって抱いたんだろ」
シスターの肩がわずかに震えた。
「力が強すぎて、気性も荒くて……あんたじゃ手に余るって、迅月衆に預けたことも……全部わかってる。あれは見捨てたんじゃねぇよな。俺を生かす道を選んでくれたんだ」
子どもたちが息をのむ。
影刃士であるグレイヴが、本気で怒ったときの空気。
それを知る子どもたちは、震えながらも期待で胸を膨らませ、シスターは静かに祈りを捧げる。
「安心しろ。俺は――あんたが選んで、この世界に繋いだ刃だ」
グレイヴの足元に、月光が影を長く伸ばす。
「案内しろ、ジーク。楽して終わらせてやっからよ――その極上の外道のBランクサマとやらを」
スラムの闇がざわつき、夜が動き出す。




