第28話 スラムの片隅で打ちひしがれる少年と、影刃士が拾った小さな命の光
月光が差し込む地下闘技場。
そこは、血の匂いと鉄の音で満ちていた。
猛り狂う咆哮が響き渡る。
人間を丸ごと噛み砕けるほどの顎を持つ魔物が暴れ狂う、その正面で、紅に輝く金髪が乱れるのも気にせず、巨躯とは思えぬ速度で駆ける男がいた。
ガルディウス・レガリア・ヴァルハイト。
第二王子にして、度を越した戦闘中毒者。
「ガハハッ!! 腹ァ減ってるだろ? だったら喰らいに来いよォ!!」
巨躯同士がぶつかる衝撃で、誰もいない観客席の石壁が震える。
魔物の鉤爪が空気を裂き、ガルディウスの頬をかすめる。血が飛び散ったが、彼は口角を吊り上げ、むしろ嬉しそうに笑った。
さらに血が飛びちる。
「いいねぇ……もっと吠えろ」
そこに、ひょい、と影が落ちる。
「よー、相変わらず楽しそうに殺り合ってますねぇ。王子サマ」
壁を蹴って闘技場の中央へ降り立ったのは、薄茶の乱れ髪、金のピアスを揺らす遊び人風の男。
影刃士、グレイヴ・ナイトウォーカー。
ガルディウスは振り返らず、魔物の腕を片手で受け止め、その巨体を地面に叩きつける。
「グレイヴ。……今、俺が暇そうに見えるか?」
「いや? “十分すぎるほど満喫してる”ように見えますけどね」
怒り狂った魔物が立ち上がり、ふたりに向かって突進する。
ガルディウスは拳を鳴らしながら言った。
「用件だけ言って消えろ。片手間で聞いてやる」
「はいはい。……“ターゲットからの回収物”、持ってきやしたよ」
グレイヴは、ひらりと指先で黒い一束の髪を掲げた。
月光を吸うような、常識外れの魔力を宿した黒髪。
「客人の少女の髪……だったよな」
魔物が飛びかかる。
ガルディウスは拳を叩き込み、一撃で頭蓋を粉砕した。血の飛沫が薄暗い灯りの下で舞う。
「ふぅん……こいつは、想像以上だな」
興奮を抑えきれぬ少年のような目で、髪を見つめる。
「魔力反応が壊れてやがる……くくっ。争いの種どころか“火種”だ。帝国の奴らでもうまく釣れれば上等……そいつは、持っておけ、グレイヴ。“使える時”がそのうちくる」
「へいへい。アンタの判断に従いますよ、雇い主サマ」
軽口とは裏腹に、グレイヴの瞳は鋭く細められる。
触れただけで手のひらが温かくなる――どう考えても普通の髪ではない。
(……面倒な匂いしかしねぇな......って、そういう展開が、旦那も俺も大の好物なんだけどよぉ)
凶悪な笑みを浮かべ、髪を懐へしまうとグレイヴは背中越しに片手を振った。
「じゃ、あとはごゆっくり。“血の晩餐”を」
ガルディウスは振り向きもしない。
次の魔物が召喚士によって解き放たれ、闘技場が再び揺れ始める。
「……いい夜だ。さあ、踊ろうか……俺を退屈させるんじゃねぇぞ? 夜が終わる? 終わらせねぇよ。俺が食いつぶすまで晩餐は続く――」
召喚円から飛び出した魔物は、飢えた瞳をぎらつかせ、よだれを垂らしながら一直線にガルディウスへ。
「さあ来いよ! その牙も飢えも死に際の叫びも、全部俺の愉悦に変えてやる!! さぁ……もっと、もっと俺を狂わせろッ!!」
地を裂くように踏み出した足元で砂が弾ける。狂気の笑みを浮かべ、真正面から駆け込む――その姿は、待つのではなく、自ら狩りに赴く刃そのものだった。
闘技場の観客席裏――影のように潜む迅月衆の気配が、グレイヴの背に鋭く突き刺さる。
足を止めるでもなく、彼は肩を揺らして笑った。
「おお、こえぇこえぇ……さすが迅月衆、殺意だけは一流だな」
振り返らないまま、口元だけが愉快そうに釣り上がる。
「そんなに気に入らねぇか? 俺が旦那にタメ口きくのがよ」
空気がひりつく。
影の中で、誰かの呼吸がほんのわずかに乱れた。
――刺し違えてでも“無礼者”を斬りたい。
そんな熱のこもった感情だけが、波のように押し寄せる。
グレイヴはまるで香りを嗅ぐかのように鼻を鳴らした。
「いいなぁ、その殺気。背筋ぞくぞくすんだよ。……あーあ。誰か一人くらい、飛びかかってきてくれりゃ最高なんだけどなぁ?」
軽く両腕を広げてみせる。
挑発というより、心底残念そうな声音。
「旦那の命令で手ぇ出せねぇんだろ? ま、忠義ってのも大変だよなぁ」
影から刃が抜ける音が“しそうになる”。
しかし実際には一歩も踏み出せない。
「ガルディウスの益にならない行動は、一切許されない」
今ここでグレイヴに手を出すことは“主の利益にならない”。それが、彼ら自身を縛りつけていた。
グレイヴはそれを理解しているという風に、鼻で笑う。
「忠義ってのも不便だよなぁ? “旦那の損になる行為は禁止”……だから俺に触れらんねぇ」
まるで残念そうに――いや、純粋に楽しんでいる。
グレイヴはくつくつと喉を鳴らした。
「……じゃあせいぜい、睨んどけよ。お前らのその物騒な目、案外嫌いじゃねぇんだわ」
片手をひらひらと上げ、愉快そうに闘技場の喧騒へ消えていった。
背中に刺さる殺意の濁流さえ、彼の歩みを止めることはなかった。
夜霧がゆらめき、整備のされていない魔晶灯が点滅しながら石畳を照らす。
王都の外縁、最も端にある、そこは光が届かない場所。
スラムの中でも特に貧しいものが暮らす〈アンダーへル〉
ひび割れた石畳、腐臭の漂う狭い路地。
グレイヴは慣れた足取りで歩き、自身のねぐら──元孤児院の廃屋へ向かう。
「クソみてぇな空気。……いやはや、落ちつくねぇ」
スラムの住人たちも、彼を見ると道を譲るか目を逸らす。
敵対者には無慈悲――無法地帯の住人全員が、彼をそう認識していた。
(強い奴を叩くのは楽しいが……ここのガキを無意味に苛めるやつは許さねぇ)
スラム奥の廃屋近く、孤児院の小さな石造りの建物。
そこには貧しいながら灯りがぽつりとともり、闇の中で唯一の温もりを放つ。
グレイヴは院に戻る直前、屋根が抜け落ちた小さな礼拝堂で、年老いたシスターが夜空の星に祈る姿を見つけ、足を止めた。
「……おかえりなさい、グレイヴ」
「おう。……こんな夜更けまで熱心だな。いい年なんだから風邪ひくぞ、シスター」
軽口を叩きつつ、彼は懐から銀貨の入った小さな布袋を取り出す。
「ほらよ。生活のたしにでもしとけ。薬とか、食料とか……あー、その……暖炉の薪とか、なんでもいいけどよ」
ぶっきらぼうに差し出すそれを、シスターは皺だらけの手で丁寧に受け取った。
「……本当に、いつもありがとうね」
「やめろって。俺はただ……ガキどもが餓えたり凍えたりすんのがムカつくだけだ。それ以上でもそれ以下でもねぇよ」
素っ気ない声。
だが、扉の向こうから覗いていた子供たちは――もう慣れっこである。
「グレイヴ兄ちゃーーん!!」
「兄ちゃん、今日も帰ってきた!!」
「グレイヴ兄ちゃん、お金いっぱいありがと!」
「兄ちゃんってば、また隠れていいことした!」
「お、おい! 覗くなって言ってんだろうが!!」
ざわざわと騒ぐ子供たちに、彼は頭を抱えながらも笑みを漏らした。
(……やれやれ。こいつらにゃ敵わねぇ)
そして小さな影が三つ、四つ。ぶわっと雪崩のように飛びついてくる。
「お、おいおい! ちょ、やめっ……おまえら成長すると重いんだって!」
「兄ちゃんくさい!」
「血の匂いする!」
「今日も悪いやつ倒したの?」
「兄ちゃん最強!!」
「おまえら、順番に喋れ! ひとりずつな!!」
わちゃわちゃと抱きつかれながらも、グレイヴの表情は――どこか諦めたような、優しいものだった。
この場所だけは、影刃士やナイトウォーカーという冷ややかな呼び名ではなく、ただのこいつらの“兄ちゃん”と呼ばれる自分でいられる。
(……やれやれ、こいつらには敵わねぇ)
子どもたちの頭を順にぽん、ぽんっとはたきながら、グレイヴは院の扉に手を伸ばした。
その時。
「……たす、け……て……」
震えた声。
振り返ると、血まみれの少年が腕の中にぐったりした誰かを抱え、途切れそうな声で助けを求めていた。




