第2話 異世界で初めての夜、王子様が隣にいるなんて聞いてません!
戦場の喧噪が、まるで深い湖の底へ沈んでいくように遠ざかっていく。
気づけばあたしは、ルシエルに導かれるまま、彼の陣営の中央へと運ばれていた。
丘の上――規律正しく並ぶ白布の幕舎。
夕暮れを受けて薄金色に縁どられ、どの幕にも淡い聖紋が揺らめく。
焚き火の橙が地面に落とす影は柔らかく、風が運ぶ草の匂いさえどこか静謐だった。
(……整ってる。全部が、目的のために配置されてる……)
ついそんなふうに考えてしまうのは、もう癖みたいなものだ。
だけど、この世界の光も香りも音も――あまりに“本物”で、心のどこかがまだ現実についていけていない。
鎧がすれ合う低い金属音。
馬の短い鼻息。
火のはぜる乾いた音。
一つひとつが鮮明で、耳の奥まで立体的に響く。
(やっぱり……夢なんかじゃない。ここは、本当に異世界なんだ)
胸の奥がひやりと縮む。
スマホもない。
帰り道もわからない。
家族は――そして、兄は、今どうしているんだろう。
幕舎の中に通されたあたしは、差し出されたブランケットに身を包み、そっと息をついた。
この布……触れるとわずかに冷たくて、でもすぐに温度を返してくれる。細い糸が交差する織り目は、強度を意識した作りで――職人の手間が、静かにそこに息づいていた。
(……こういうのに気づくの、治らないな……)
不安なはずなのに、指先はどうしても“造り”に反応してしまう。
そのたびに、自分が模型店で材料に触れていた時間を思い出す。
ここでは何もわからなくて、何も持っていないのに――その感覚だけは、確かにあたしの中に残っていた。
静かな幕舎の入り口。
薄布が揺れるたび、外の光がほのかに差し込み、橙と金がゆっくり混ざりあう。
その中で。
ただ一人、あたしのそばに立つ彼――ルシエルは、夕陽の縁取りを受けて、どこか現実離れしたほど美しかった。
光の粒子が、彼の髪に触れ、肩に降りていく。
まるで“この人だけは、絶対に壊れない存在”だと、世界そのものが証明しているみたいで。
見てはいけないものに近づきすぎたような、胸の奥があたたかくて苦しいような――そんな感覚に、あたしはそっと目を伏せた。
そんなとき。
「落ち着いた?」
ふいに声をかけられて、あたしはびくりと肩を揺らした。
顔を上げると、鎧を外し、髪をゆるく後ろで束ねたルシエルがそこにいた。
ランプの橙色だけに照らされて、金の髪がふんわり光をまとっている。
「な、なんとか……。というか、全部お世話になってすみません……」
「気にしないで。空から落ちてきた娘を助けるなんて、そうそうある経験じゃないからね」
ルシエルが微笑む。
その笑顔が、胸の奥にふわっと灯りをともすようだった。
「……あの、自己紹介、まだでしたよね」
「そういえば、まだ聞いてなかったな」
「あたしは、月城 柚葉。えっと……夢が叶って、今は模型店で働いてます」
「模型店?」
「あ、えっと……こう、小さなものを作ったり、飾ったりするお店で。戦艦とかロボットとか、キャラもののフィギュアとか……」
「なんだか聞きなれないものを作っているみたいだけど、繊細な造形物を作る職なのかな? 職人なんだね」
「し、しょっ、職人!? そんな立派なものじゃ……! ただの趣味女子ですよ、あたし!」
思わず手をぶんぶん振ると、ルシエルが楽しそうに笑った。
やばい、イケメンの微笑みって破壊力高すぎる……。
「でも、好きなことを仕事にできたんだろう? それは誇っていい」
「……そう、ですよね。うん。夢が叶ったんです」
ぽつりと呟いた瞬間、胸の奥にぽっかりと穴が空く。
叶えた夢の向こうで、いきなりすべてが消えてしまったような――そんな感覚。
「……家族、心配してるだろうな」
その言葉が漏れた途端、胸がきゅうっと締め付けられた。
「両親と、弟と妹がいて。みんな明るくて、元気で……。でも、一番は兄。尊敬してる人なんです。プロのモデラーで、あたしが模型始めたのも兄の影響で」
「兄上を尊敬しているのか」
「うん。あの人みたいになりたいって、ずっと思ってた。……今ごろ、心配してるだろうな。あたしが急に消えちゃったから」
言いながら、指先が震えた。
兄の手の動き、背中の姿、夜更けまで一緒に塗装していた時間――どれも、遠い光みたいに胸に浮かんでくる。
「……それに、店長のプーやんも、きっと心配してると思います」
「プーやん?」
「うん、模型店の店長さんで。熊みたいに大きいんですけど、めっちゃ優しくて、手先は職人レベルで繊細なんです。よく“お前の塗りは魂がある”とか言ってくれて……」
ふっと笑いながらも、目の奥がじんと熱くなる。
「ほんと、すっごく世話になってて。師匠みたいな人なんです」
ルシエルは少し目を細め、静かに頷いた。
「師の存在か……いいな」
「え?」
「ボクも昔、剣を教えてくれた師がいた。厳しかったけど、誰よりも優しかった。君にとっての“プーやん殿”と、似ているのかもしれない」
「プーやん“殿”……!」
思わず吹き出すと、ルシエルが肩をすくめて微笑んだ。
「熊のような師匠。きっと、君がいなくなって落ち込んでいるだろうね」
「……うぅ、たぶん。あの人、見た目は強面だけど、意外と泣き虫だから……」
そう言いながら、柚葉は小さく笑う。
けれど、その笑みの奥に、やっぱり寂しさがにじんでいた。
「ごめんなさい、なんか……湿っぽくなっちゃって」
「いいや。君のことを知れて嬉しい」
ルシエルは静かに言った。
その声はあたたかく、夜の灯のように、柚葉の胸の奥の孤独をやわらかく溶かしていった。
「この世界では、君のように――どこか知らない世界から来る者を客人と呼ぶんだ」
「まれびと……?」
「そう。ある時、ある理由で、この地が“必要とする人”を迎える。ただ……空から降ってきたっていうのは、さすがに前代未聞だけどね」
ルシエルが肩をすくめ、少しの戸惑いを浮かべて笑う。
「じゃあ、あたしも……呼ばれたってこと?」
「かもしれないね」
その穏やかな声に少し安心して、柚葉はつい口をついて出た。
「……そういえば、ルシエル様っておいくつなんですか?」
「ボク? ちょうどこの前に十七になったよ」
「じゅ、十七ぃっ!?」
思わず声が裏返った。
(どう見ても王子系モデルの二十代前半だよ!? 造形の完成度的にも!!)
「どうした?」
「い、いえいえ! 若いなぁって! お、お元気ですね!」
あたふたする柚葉に、ルシエルは不思議そうに首を傾げる。
「ユズハは? 少し前に職人になったってことはまだ見習い? 十はいってるよね? いや十二くらいかな?」
「……っ! じゅ、十!? 十二!? あ、あたし、そんなに!?」
(ま、まぁ確かに日本人は幼く見えるって言うけど! でもそれにしたって十歳以上サバ読まれてるよ!?)
思わず口を押えて動揺する柚葉。
実際の年齢が、二十三歳なんて言えるわけがない。
(……こんな爽やかキラキラ王子の前で実はお姉さんの二十三歳です! ユズ姉って呼んでね! なんて言ったら絶対ドン引きされる案件!)
「……ふふ、顔が赤いけど、どうかした?」
「い、いえいえ! ただ、あの、ちょっと酸素薄くて!」
「この標高なら大丈夫だと思うけど?」
(異世界のツッコミ精度、意外と高いっ!)
ルシエルの微笑みが、まるでいたずらっ子みたいに柔らかくて、柚葉は心臓の鼓動を必死に抑えようとした。
「安心して、ユズハ。君が帰る道を見つけるまで――ボクがそばにいるよ」
「……そんなこと言われたら、信じちゃいますよ?」
「信じていいさ」
まっすぐで、揺れない眼差し。
そのまま見つめ返した瞬間、胸の奥で何かが溶けていく気がした。
風が幕を揺らし、静かな夜が二人を包む。
――この世界は、夢じゃない。
そう、あたしははっきりとそう思った。




