第22話 星の光に触れる指 秘密の場所で、ふたりの距離がまた一歩、近づく
塔の天井からこぼれる星光は、薄絹のような輝きをたたえて空間を満たしていた。
中心にそびえる“光の柱”は、生き物のように静かに脈動し、その呼吸の気配が足元から胸の奥へと染み込んでくる。
柚葉は言葉をなくし、ただその光に吸い寄せられた。
「……こんな場所、初めて見た……」
「だろうね。ここは――セレーネ母上が、とりわけ好んでいた場所だから」
柔らかな声に振り返ると、ルシエルは光の柱を見上げながら、遠い記憶に指先で触れるようにまなざしを細めていた。
「セレーネ様……ルシエルのお母さん?」
「うん。“光の聖女”と呼ばれた人だよ。光の加護を受け、神殿を導き……父上を救い……そして――」
そこで言葉が、ふっと沈んだ。
「……突然、いなくなったんだ」
淡々と紡いだはずなのに、その奥底に沈む痛みが、光の揺らぎと一緒に胸へ届く。
「……ごめんね。重くするつもりはなかった」
「ううん。話してくれて……嬉しい」
視線をそっと合わせると、光の柱がふたりの影を寄り添わせるように揺れた。
「母上はね、星を見るのが得意だった。“夜空には、いつだって未来の形が流れている”って、よく言っていたよ」
「素敵……」
「僕は母上ほどじゃないけれど……でも」
ルシエルが手を伸ばす。
指先に集まった光が、柚葉の頬へとやわらかく反射し、心臓がきゅっと跳ねる。
「君の未来は、きっと――ここから変わる」
「え……」
「柚葉。ここへ連れて来たのには、理由がある」
一歩。
その小さな踏み出しが、光を揺らし、息が触れそうなほど距離を近づけた。
「君は、この世界に“呼ばれた”。偶然じゃない。黒の加護――癒しと宵闇を宿す、星降る巫女。そして……僕が君に惹かれたことも」
「~~っ……!」
「……やっぱり、困らせたかな?」
「こ、困って……ない、です……!」
震えながらも必死に絞り出された声に、ルシエルは微かに息をほどく。
触れられるほど近いのに――触れない。
その“触れなさ”が、逆に胸をぎゅうっと締めつける。
「それなら……良かった――触れてもいいって、君の心が思える日を。僕は、ちゃんと待てるから」
囁きが、光よりも静かに、優しく、胸の奥へ落ちていく。
少し前――ルシエルと柚葉が回廊を歩き、離宮へ向かう馬車へと乗り込んだころ。
すぐ後ろでは、侍従たちがまだ小声で騒ぎ続けていた。
(殿下が……あんな穏やかな笑みを……?)
(夢じゃないよな……? 皆、見たよな……?)
(ま、まさか……あのお方はいったい……!)
そんな動揺が渦巻く中、遠征から戻った騎士たちが続々と離宮に帰還する。
先頭にいたルシエル直属の近衛騎士副団長が、侍従の騒ぎに気づき、肩をすくめて立ち止まった。
「……お前たち、ユズハ殿を知らないのか?」
「え、ええと……はい……その……“星降るみたいに可憐なお方だな”とは思ってましたけど……」
副団長は深いため息をこぼした――が、どこか嬉しそうでもあった。
「なら教えておいてやる――あの方は、“ただの客人”でも“可憐な方”でもない。我々の命を救った、“英雄”だ」
「え…………?」
侍従たちの全員が固まる。
「黒曜のワイバーン。あれを仕留めたのはユズハ殿だ」
「っ!!?」
侍従たちが一斉に変な声をあげた。
そこへ別の騎士が胸を張って続ける。
「癒しの力だってすごかったぞ。自分の身を削って、何十人も助けた。普通なら助からなかったはずの重傷者までだ」
「俺なんて、オークの斧で胴が裂けたのに――ほら、今じゃ走り回れる」
騎士が腰のあたりを叩きながら笑う。
侍従たちはもう震えるしかなかった。
「そ、そんな……にわかには信じられないほどの……!」
「信じろ。村が魔物に襲われた時には、殿下を庇って倒れながら、古文書にしか載っていない黒鉄の巨獣まで召喚された」
「こ、古代召喚級……!?」
「そうだ。殿下が大事にするのも当然だ。俺たちは敬意を込めて“癒し手のまれびと”と呼んでいる」
侍従たちは揃って口をぱくぱくさせた。
すると若い猫獣人の侍従が、ぽそっと震え声でつぶやく。
「そ、そんな……すごい方だったにゃんて……! わ、わたし……勝手に“お菓子が好きそうだなぁ”って思って……厨房に伝えてたにゃ……!」
「えっ、何を伝えたの!?」
「“見た目がふわふわしてるから、きっとマシュマロ系が好きですにゃ!”って……!」
「おまえ……っ!!」
侍従たちは真っ赤になって頭を抱えた。
だが副団長は腹を抱えて笑い出す。
「はっはっは! お前らの目の付け所は嫌いじゃないぞ! まあ……ユズハ殿はああ見えて、戦場で誰よりも強くて優しい方だ。丁寧に仕えるのは大事だが、怖がらず――心を込めて接すればいい」
「……は、はいっ!!」
「全力でおもてなしします……!」
「殿下にも並ぶ敬意で……!」
「お茶も……もう二度とぬるくしません……!」
猫獣人の侍従は耳まで真っ赤にして両頬を押さえた。
「ど、どうしよう……すでにマシュマロいっぱい準備しちゃったにゃぁぁ……!」
侍従たちが盛大にずっこけ、騎士たちは爽やかに笑い、離宮周辺がふんわり温かい空気に包まれた。
こうして侍従たちはようやく、「黒の加護のまれびと――柚葉」の真の姿を知り、その敬意は一気に“王族級”どころか、“ちょっとした信仰”へと跳ね上がったのだった。
塔の中心に立つ光の柱が、星の呼吸のようにゆっくり脈動していた。
天井から降りそそぐ星光が淡い霧となって満ち、ふたりの影を柔らかく包む。
「ルシエル……」
名前を呼んだ瞬間、光がふっと揺れ、粒子が彼の肩へと落ちた。
ルシエルはほんの少しだけ視線を柚葉へ向ける。
その距離は――息が触れそうなほど近い。
「うん。どうしたの?」
「……あなたのお母さん――セレーネ様は、どんな人だったの?」
ルシエルは一拍だけ沈黙し、星光に照らされる横顔を伏せた。
長い睫が震え、その影が頬に落ちる。
「――光のような人だったよ」
静かに、けれど胸の奥に深い熱を宿した声だった。
「綺麗で、賢くて、優しくて……でも強い。自分の命より、誰かの未来を迷いなく差し出せる人だった。母上が笑うと、王宮が少しあたたかくなる――そんな人でね」
語るほどに、彼の瞳には星光とは違う揺らぎが宿る。
「……亡くなった理由は“急病”と記された。だが――本当は違う」
「違う……?」
震えるような星の粒が、柚葉の胸に落ちた。
ルシエルは光の柱へ歩み寄り、指先でそっと触れる。
瞬間、塔全体が呼吸するように淡く震えた。
「神殿が隠した“真実”がある。母上はそれに気づき……そして――」
そこまで言いかけ、言葉を閉じた。
光が彼の横顔に淡い影を作る。
「いつか話すよ……君に、全部を預けたいと思える日が来たら」
柚葉は息を呑む。
触れれば壊れてしまいそうな儚さと、胸の奥で燃えるような強さが混ざるその横顔に。
そして――ルシエルの手がそっと伸びる。
柚葉の頬へ触れる直前。
ほんの数センチ。
触れたら戻れない距離。
その指先が、柚葉の熱を感じ取るように微かに揺れ――しかし触れない。
「今は……これでいい。母上が愛したこの場所を、君に――“最初に”見てほしかったんだ」
光がふたりの影を重ねるように揺れた。
柚葉の心臓は、静かな湖面に落ちる雫のように、柔らかく、けれど確かに跳ね続ける。
「……ルシエル様。ありがとう」
言葉がこぼれた瞬間、ルシエルはゆっくり微笑んだ。
星光よりも優しい、穏やかな微笑み。
「“様”はいらない。名前で呼んで……柚葉」
胸が熱く、甘く震えた。
「……ルシエル」
その一言に、光の柱が淡く揺らぎ、塔の星光が祝福するようにきらめきを増した。
まるで――ふたりだけの世界が、そっと息をしたかのように。




