第21話 手を離さない王子と光の庭へ――星が息づく塔で始まる恋の予感
王城〈ヴァルステラ〉の内部移動用の小型馬車は、まるで世界から切り離された聖域のように静かだった。
外の喧騒は遠い。
ひそやかな羽音すら聞こえる気がするほど、穏やかな沈黙が満ちている。
ルシエルの離宮に備えられた特別仕様なのだろう。深く沈む座面は体を包み、揺れはほとんど感じられない。
――にも関わらず。
(……あ、の……どうして……まだ……手……?)
柚葉は気づいてしまっていた。
馬車が動き始めてから、もう五分以上は経っている。
にもかかわらず、自分の右手は――ルシエルの、温かく大きな掌の中に、すっぽり収められたままだった。
彼の指は無意識に絡んだようでいて、どこか“選び取るように”確かで。
離そうとしていないのか、それとも離す気がないのか、判断がつかない。
(えっ……こんなの……どうしたら……!?)
そっと手を引こうとするたび――ルシエルは、気づかぬふりをしているように見えながらも、指先でふわりと包み直す。
力はない。
けれど、優しくて、あまりにも穏やかな“引き留め”。
それが逆に、柚葉の胸の奥で火照りを生む。
心臓が喉元までせり上がり、息が揺れる。
沈黙が気まずいのではない。
沈黙そのものが甘くて、逃げ場がない。
横目でそっと見たルシエルは――まるで何のこともないような、静かな横顔をしていた。けれど、指の熱だけが雄弁に告げている。
あなたを手放すつもりは、今はない。
(や、やめて……そんな……自然に……っ)
胸の奥で叫びながらも、握られた手はほんの少しだけ、逃げる力を緩めてしまう。
そっと触れた指の節が動いた。
それだけで、世界がひとつ震えた気がした。
「どうしたの?」
「い、いえっ!? な、なんでも!」
思わず裏返った声に、ルシエルは小さく瞬きをした。
その仕草は穏やかで、どこかおかしみさえ帯びているのに――手は、離れなかった。
その自然さは、まるで“ここにあるのが当然”であるかのように静かで。
柚葉の方が、勝手に胸をざわつかせてしまう。
沈黙に耐えきれなくなった柚葉は、ぎこちなく視線を窓へ向ける。
「あの……ルシエル様は、よく客人を案内されるんですか?」
「ボクが“自分で”案内するのは、滅多にないよ」
答えは即座だった。
その声は低く、穏やかで――密やかに胸へ降りてくるような“距離の近さ”がある。
「そ、そうなんですか……? じゃあ……どうして、あたしを……?」
問いかけは、震えるほど小さかった。
ルシエルは少しだけ視線を落とし、そのまま柚葉の手を包み直した。
ゆっくり、確かに。
「――案内したいと思ったからだよ」
心臓が、ひどく不意打ちに跳ねる。
「正直に言うとね……」
ルシエルは窓の外へ軽く視線を流し、その横顔はどこか困ったように、しかし柔らかく笑んでいた。
「客人――特に貴族の令嬢たちから案内を頼まれることは多いんだ。でも、ボクが何かすると……期待させてしまうから。だから普段は、距離を置くようにしている」
言い寄られる、という言葉を直接口にしない。
けれどニュアンスだけは、静かに伝わってくる。
「……あまり、軽々しく希望を与えたくないんだ」
柚葉は息を呑んだ。
その声音は淡々としているのに、どこか疲れた影がある。
他者に向けた慎重さが、彼の面差しに刻まれていた。
なのに――
「でもね、ユズハ。君には……それをしようと思った」
突然、ルシエルの視線が真正面から重なった。
光が揺れて、心を射抜く。
「この世界に来てから、ずっと頑張ってきたでしょう?右も左も分からない場所で、不安だらけだっただろうに……それでも前へ進もうとしていた。それが――ボクには、とても強くて、綺麗に見えたんだ」
「そんな……たいしたこと……」
「ボクには、そう見えたよ」
手のひらに宿る熱が、そっと増していく。
柚葉の頬が夕光に照らされ、ほんのり染まる。
ルシエルの指先が、その色に惹かれたように伸びかけて――
けれど、すんでのところで止まった。
「……触れたら、困らせるからね」
低く抑えた声は、冗談めいているのに、ほんの少し滲む自制が甘い。
(い、いや……もう……十分困ってるよ……!?)
心の中で叫びながら、柚葉は胸の奥まで熱くなっていくのを感じた。
――それでも。
ルシエルは、やはり手を離さなかった。
まるで、その温もりだけは手放すつもりがないかのように。
声にならない抗議を胸にしまったまま、柚葉は視線を落とした。
その間も、ルシエルは手を離さない。
指先同士が触れ合うたび、ふたりのあいだの空気がひどく甘く揺れる。
それなのに――
馬車は、目的の場所へ近づきつつあった。
「ユズハ」
呼ばれた名に、柚葉は肩をすくめるように顔を上げた。
途端――視界いっぱいにルシエルの顔が近づいた。
息が触れそうなほど近い。
その距離にあまりにも驚き、柚葉は言葉を失った。
ルシエルは、わずかに眉を下げたまま、そっと囁く。
「……そんなに震えたら、触れたくなる」
(っ……な、なに言って……!?)
思考が追いつく前に、馬車が“ふわり”と止まる寸前の揺れを見せる。
その揺れに押されるように、柚葉の身体がほんのわずか前へ傾く。
触れてしまう――そう思った瞬間。
ルシエルは、柚葉の肩に手を添えて、丁寧に支えた。
触れようとしたのではなく、触れすぎないように“守る”動き。
その優しさに、胸の鼓動はさらに跳ねる。
「……危ないよ。君に触れるのは、まだ……」
そこで言葉を切り、彼は静かに微笑んだ。
――“まだ、我慢しておく”と言うように。
「そろそろ着くよ。“最初に案内したい場所”へ」
馬車が完全に止まり、車体が静寂に包まれる。
扉が開かれ、外の光が溢れ込む。
手を引かれるまま一歩踏み出すと――柚葉は思わず息をのんだ。
離宮の奥。
透明の壁と半透明の天井に囲まれた天光の塔。
中心では“光の柱”が脈動し、まるで光でできた大樹が空へ向かって伸びているようだった。
「ここは……?」
「“星見の庭”。――昔、母上が愛した場所だよ」
ルシエルが光の柱へそっと手を伸ばすと、淡い波紋が塔の内部を静かに染めていく。
その光景は、彼の声と同じくらい優しかった。
「ボクが、君に最初に見てほしかった場所だ」
秘密に触れるような静かな声で、彼は続ける。
「君に……見せたいと思ったんだ。最初に」
胸の内側が、ひたひたと満たされていく。
「……綺麗……」
「うん。――君がいると、もっと綺麗に見える」
その言葉に返事ができない。
喉が震えて、言葉にならない。
(なんで……そんなふうに言えるの……?)
ただ、立ち尽くすしかなかった。
そんな柚葉の横顔を見つめながら、ルシエルは僅かに息を吸う。
「……本当は、馬車を降りる前に離すべきなんだけど」
そう言って、繋いでいた手を見下ろす。
「……手、離したくなかった」
その小さな告白は、囁きにも満たないほどの音で――けれど柚葉の胸には、はっきり届いた。
光の柱の脈動と、ふたりの鼓動が静かに重なる。
――その手は、まだ離されないまま。




