第128話 王妃の死が遺したもの、赦しと贖罪が剣を導くとき
ガルディウスは、拳をぐっと握りしめながら、どこか遠くを見つめるように言った。
「おやじの血を引いたからか、俺は特に……冒険への憧れと血が騒ぐんだわ」
そして、ニヤリと口元を吊り上げる。
「……それにしても、息子が三人とも、揃いもそろって聖女に惹かれるってのも……これ、完全におやじの血のせいだな」
その瞬間、謁見の間に一瞬の静寂が走る。
レオハートは、目を瞬かせ、次の瞬間、腹の底から大笑いした。
「はははははっ! なるほど、なるほど! ということは……アーシェスは、リディアーヌ殿とか……なるほどなぁ!」
「……父上、なにが大笑いするほどの、なるほどなのですか」
アーシェスが真顔で問い返すと、レオハートは笑いを堪えながら、肩をすくめてみせた。
「いや、なに、王家の男は、どうにも聖なるものに弱いらしいという話だ……それも、強く、美しく、そして手強い女神たちにな」
「……まったく、困った血筋です」
アーシェスがため息をつくと、ガルディウスが肩を組みにいく。
「ま、兄貴もそろそろ腹くくったらどうだ? リディアーヌ殿、悪くねぇぞ。ちょっと冷たいけど、ああいうのがたまらんってやつもいるしな!」
「やめなさい、ガルディウス。それ以上は不敬にあたります」
「おっと、そりゃ失礼」
そんなやり取りに、謁見の間には、久しぶりに柔らかな笑いが広がった。
それは、戦いの終わりと、新たな旅立ちの前に訪れた、つかの間の、あたたかな時間だった。
謁見の幕が下り、レオハート・レガリア・ヴァルハイトは、少し軽い足取りで私室へと戻った。
扉を開けた瞬間、空気がわずかに張り詰める。
そこには、六花の金獅子――ドルガン、アウロア、リュウゲツの三人が、無言で控えていた。
そして、その奥。
窓辺に立つ、全身を黒いマントで覆い、深くフードを被った男がひとり。
レオハートは、その姿を前に、低く、重い声で呟いた。
「……生きていたのか、ヴァルガ」
その名を呼ばれた男は、静かにフードを下ろし、ゆっくりと膝をついた。
その顔には、深い疲労と、拭いきれぬ悔恨の色がにじんでいた。
「……すまぬ、レオハート王よ。セレーナ様の死には……私が関わっていた」
その場にいた誰もが、息を呑む。
「直接、手を下したわけではない。だが……あの方の生命力は、すでに限界だった。神聖力もほとんど残っておらず、虚邪の穢れに抗う術を持たなかった」
ヴァルガの声は、たまらないほど震えていた。
「私は……その兆しに気づきながら、止めることができなかった。結果として、あの尊い命を……散らせてしまった」
それは、宮中の皆に蔑まされてはいたが、王の弟として身内に対する、深い悔いの告白だった。
レオハートは、しばし沈黙したまま、窓の外に目を向ける。
やがて、静かに口を開いた。
「……セレーネが、そこまで生命力を削って、この国に祝福を与えていたことを……俺は、止められなかった」
その声も、ヴァルガ同様に掠れていた。
「王として、夫として……あいつの献身に甘え続けた。それは、俺の罪だ」
重なる沈黙。
それは、言葉では癒せぬ悔恨の重さだった。
一方で、その場にいた者たちは皆、その痛みを、確かに共有していた。
ドルガンが、静かに拳を握りしめる。その拳は、かつて幾多の戦場を駆け抜けた剛腕。
だけど、あのとき――セレーネの背が、揺れていたことに気づきながら、「大丈夫か」の一言すら、口にできなかった。すでに王となったレオハートと婚姻して王妃になったセレーネに余計な気遣いをさせまいと、忠義の名のもとに、沈黙を選んだあの時の自分を、今も許せずにいた。
アウロアが、そっと目を伏せる。
彼女は、誰よりも早く異変に気づいていた。神聖力の揺らぎ、呼吸の浅さ、それらをただの疲労の一言で片づけたのは、他でもない自分だった。「お疲れでしょう」と、一度でも言えていれば、もしもが、今も胸を締めつけていた。
リュウゲツは、何も言わずにただ立ち尽くす。
彼は、セレーネの祝福の場を守る者だった。その背に、幾度も夜更けの祈りを見てきた。しかし、彼女の祝福が、命を削る行為だと気づいたときには、もう、止める術はなかった。「大聖女である彼女なら大丈夫」その言葉が、今はただ、無力の言い訳にしか聞こえなかった。
誰もが、気づいていた。誰もが、見ていた。けれど、誰も、止めなかった。
それぞれの胸に、あの時の記憶が、痛みとともに蘇っていた。
それは、ただの後悔ではない。
王妃セレーネという存在が、どれほどの犠牲を払ってこの国を支えていたのか、その重さを、今ようやく、真正面から受け止めていた。
そして、ヴァルガは深く頭を垂れたまま、その場から動かなかった。
それは、過去と向き合う者たちの、静かで、重い懺悔の時間だった。
ヴァルガは、うなだれたまま、床に額がつくほど深く頭を垂れた。
「……レオハート王よ」
その声は、かすかに震えていたが、その奥には、揺るぎない覚悟があった。
「それでも……セレーネ様の骸を、長きにわたり虚邪の穢れに晒した、罪深き俺を……罰してくれ」
静寂が、私室を包む。
「その剣で……この命を終わらせてくれ」
誰も、言葉を発せなかった。
ドルガンも、アウロアも、リュウゲツも。ただ、レオハートだけが、ゆっくりと歩み寄り、無言のまま、腰の愛剣に手をかけた。
金属の擦れる音が、静かに響く。
「……覚悟はできているのだな」
ヴァルガは、何も言わなかった。しかし、その沈黙こそが、すべての答えだった。
レオハートは、剣を高く掲げ、そして、振り下ろした。
だが、その刃は、ヴァルガの身体を貫くことはなかった。
風を裂いた剣は、彼の肩先をかすめ、床に突き立った。
「……虚邪の穢れに堕とされたヴァルガは、今この瞬間に、死んだ」
レオハートの声は、低く、しかし確かだった。
「ならば、今ここにいるおまえは、新たに生まれたヴァルガだ」
ヴァルガが、顔を上げる。
その瞳に、驚きと、戸惑いと、そして、かすかな光が宿っていた。
レオハートは、そっと剣を鞘に収めたまま、ヴァルガの肩に手を置いた。
「おまえの贖いは、命を絶つことではない。未来を守ることだ。それが、セレーネの魂への、唯一の供物となるだろう」
その瞳は、もはや王のものではなかった。
家族として、血を分けた者としての、まっすぐな眼差しだった。
「……王ではない。今ここにいるのは、お前の兄だ」
ヴァルガが、はっと顔を上げる。
「俺はおまえの兄だ。だからこそ、頼む。俺の息子たちを……そして、娘になる者たちを、どうか、その手で守ってくれ」
その言葉に、ヴァルガの胸が熱くなる。
数こそ少なかったが、かつて共に剣を交え、共に笑い、共に涙を流した兄が、いま、王の仮面を脱ぎ、ただの家族として、自分に託してくれている。
「……兄上……」
ヴァルガは、深く頭を垂れ、その額を床に押しつけるようにして、静かに、しかし力強く誓った。
「この命にかえても、必ずや……彼らを守り抜いてみせます」
レオハートは、微かに笑みを浮かべた。
「ならば、もう何も言うまい。おまえが生きていてくれて、よかった」
その言葉に、ヴァルガの肩がわずかに震えた。
それは、贖罪の果てに差し込んだ、一筋の光だった。
その背に、かつての影はなかった。ただ、赦されし者としての、新たな誓いが宿っていた。




